書訪迷談(15):痛ましき肖像

 

エゴン・シーレ―二重の自画像 (平凡社ライブラリー)

エゴン・シーレ―二重の自画像 (平凡社ライブラリー)

 

 

「欲しいと思ったら買い時である」。友人が私にかけてくれた金言だ。その場で購入するか否か散々に迷って諦めたけれど、帰路のもの寂しさから変心をもよおし、やはり買おう、明日買おうなどと決心して次の日も再訪するがもう売れてしまっていた......なんて経験が一度二度では済まない程度の回数あると、この言葉も随分と響くものだ。痛いほどに。

つまらぬ出し惜しみをしたせいで特に強く後悔した思い出がある。もう何年もまえ、ある古書店ヘルマン・ブロッホ『夢遊の人々』文庫版が上下巻揃いの美品として3000円で売られていたのを買い逃したときだ。決して安くはないが価値を考えればお手頃だというのに、財布と相談しつつ手を引いてしまった。あとは上に書いた流れのとおり。まったく、まったくもって惜しいことをした。

どうしてこれほどまでに悔いが大きいのか。というのも、その文学作品としての質もさることながら、文庫版は各巻でエゴン・シーレの「ほおずきの実のある自画像」と「ウァリーの肖像」が表紙になっていて、豪華な装釘ではないものの、一体の完成されたパッケージとして実に洗練された存在感を誇示しているのだ。シーレとブロッホ、同時代を経験するふたりの同世代の同国人による、後生の作為による合体技。わが手中に来たるべき書物、いまだ千秋を想う。

デザイン面で優れるとか、材質にこだわるとか、適切に内容を象徴するとかした表紙は世の中に多かれど、心の深みまで刺さるものは限られる。機会や出会うまでの文脈にもかかる。個人的に、マルセル・ブリヨン『幻想芸術』や坂部恵『モデルニテ ・バロック』などを見たときも同様に、その表紙への絵画のあしらい方に格別な感動を覚えた。言うなれば四次元的対象を視たような......そのような選択の妙により、内容を反映した書影を与えられるだけにとどまらず、化学反応さながらの作用で訴求力を帯びはじめ、諸要素の組み合わせであるところの単なる「合計」ではなくそれ以上に豊かな「全体」として存在感を得ることがある。

あくまで私が拡大解釈的にそういうドラマ性を見出してしまったという個人的な感覚体験の話でしかないが、それにしても前提として編集の側で優れた仕事がなされなくてはならない。ここまでくると技能や知識の問題を超越している。審美的情緒を震撼させるため、関係性の美学を追求できる感覚、すなわち詩情がなければならないと思うのだけれど、どうだろう。

 

本題に入る。エゴン・シーレの話題について考えたら上の流れになったのであるが、見事に着地しなかった(導入ヘタクソすぎかよ)。

シーレはわりあいに私の好きな画家だ。といっても詳しくないから感覚でいいなと思うだけで、ざっくり夭折の画家であることを知るのみだった。だけどやはりあの一見歪なような美しい身体感覚が私の心をどこか穿つのであり、興味は持ちつづけていた。そんなある日、ふと坂崎乙郎の著作を読みたくなったので蔵書をごそごそとしてみると、この『エゴン・シーレ 二重の自画像』が示し合わせたように見つかったのである。

本書は伝記であるから、生い立ちから家族関係、人間関係や経歴などをなぞりゆくものである。実際、いろいろなことを知ることができた。父や叔父がシーレにとってどういう存在であったのかなど興味深く、投獄の経験は痛ましく、また画風に関しても短い人生における変遷がはっきりわかる。

しかしこれは本質的には目的意識の明確な美術評論であり、絵画の詳細な分析が比較を交えながら、時にシーレの内面を探りながら、じっくりなされてゆく。対比されるのはゴッホクリムト、ココシュカといった画家たちであるが、必ずしも芸術家に縛られない。ときたま差し挟まれるムージル(本書ではムジール表記)の『特性のない男』の記述は、シーレのことを語ったものではないのに違和感なく収まり示唆的だ。そして誰よりもウァリー。彼女の存在が、シーレにとってそうであったように、あまりにも大きい。全10章中、第7章と第8章がそれぞれ「ウァリーⅠ」「ウァリーⅡ」に割りあてられていることを見れば一目瞭然である。

この記事の第3段落で触れた肖像と自画像についての記述もある。坂崎によれば、 

同一人物がかりそめに男と、女の形をとって現れたにすぎない。(p.150) 

本書を読み進めるゆけばゆくほど、シーレとウァリーの関係が男と女や画家とモデルなどへと単純に還元されえない不可逆的なものに思われてならなくなる。それほどの重大さ。それゆえか、著者はシーレのみならずウァリーの内面にも分けいり、それを露わにする。ふたりをまるで同一視する。関係性の完成形と見なしたのであろう。ウァリーとわかれて別の女性と結婚したシーレを、画家として幸福であるなどと決して描写していない。あまつさえ、ある面においては後退と言いきる。

結論ありきの批評や過剰な読みこみには一種の「越権行為」を感じてしまい、いつもなら好きになれないことが多い。しかし本書の叙述はすれすれの行軍を継続しながら、その種の嫌みったらしさを放っていない。疑問を抱くよりも先に、坂崎乙郎エゴン・シーレの、時代も国籍も異なるはずの両者の気質の親和性だろうと思いあたった。日記などシーレ自身の言葉が引用されることもあるが(本書とは別に邦訳もある)、不思議と著者の論調にしっくり沿う。著者がシーレに合わせようとしたという無理強いの感もない。あるべくしてある。もっと核心的な問題ではなかろうか。それがなんなのか、知る由もない。あるいは私の思い違いか。

「二重の自画像」という副題は意味深、というより多義的である。シーレは自分が2人、3人と重なっている自画像もいくつも残しているから、そこにちなんだものには違いない。しかし坂崎の心眼で見れば、それが時にはシーレとウァリーとなるのであり、画家自身の複数性であろうとしていない。それに本書ではウァリー以外にも父アドルフ、ゴッホクリムトらも本書の主役の随走人に選ばれているが、彼らとの重なりもまた一時的ではあっても「二重」の様相を見せる。それゆえ自画像はもっと多重と判断することもできるかもしれないが、象徴的にはやはり「二重」なのだ。

しかしまだもうひとり、いる気がしないだろうか。シーレとの重なりを見せる人物の気配を感じないだろうか。私には心当たりがある。それは著者、坂崎乙郎である。もちろん彼は本文中で自分とシーレを同一視しようとはしていない。思うに、する必要がなかった。

シーレが28で死んだのに対し、坂崎はその倍とほんの少し生きた。逆に言えば、前者ほど極端ではないが、たったの57で死んだ。スペイン風邪で亡くなったシーレとは異なり、自裁である。シーレと同じく生前は世間から必ずしも広く評価されなかった、盟友の鴨居玲自死を追ったのだとされる。既述してあるように国籍も年代も異なり、出自もまた違って、どこにも共通点はない。しかしどうしてか、輪郭は揺らぎながら、重なろうとしているように感じられる。

エゴン・シーレ』は遺著だった。あとがきによれば、長らく書きたいと思っていたのだそうだ。その筆致は迫り、夢中にありそうで醒め、過剰に生き生きとして、生々しいとさえ言える。これほどまで文体に生を宿らせてしまったら、肉体はもう死ぬしかない。彼は最後の著作の執筆中から自分の死を本当に覚悟していたのではないかとさえ思う。研ぎ澄まされた感性。シーレもその持ち主だった。それはあまりにも鋭く、よく言われるようにあまりにも脆い。それで痛々しく切りつけることしかできなかった。誰を? 書く対象、ここではシーレを。すなわち自分自身を。

つまり言いたいのは、本書が坂崎によるシーレへの追悼文であり、自身の遺言であり、画家ではない人間により描かれた自画像の試みだったのではないか、ということである。だからこそ読後、心のなかにふたつの並ぶ絵画が見えたのではなく、「二重の自画像」がかかっているように感じられたのだ。

 

本の内容をよく理解していないことは、混乱した文章からもおわかりと思う。ごまかしばかり、まことに進歩がない。ここまで半ば確信的にテキトウをこいてきたが、自分でつけた傷だらけの身のままこの世を去った彼らのことを思うと、私の文章などすべて陳腐に帰するしかないだろう。というか私こそが「越権行為」の張本人なのでは?

ところでクリムト展が4月から東京都美術館で開催されることは知っていたのだけど、ほぼ同時期に国立新美術館で「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」というのも開かれるそうだ。基本的にはクリムトが人気なのだろうが、それに乗じてシーレも、特に後者の展示ではじっくり鑑賞することができそうで待ち遠しい。

 

最後になるが、本記事の導入で書いたように買いたいものはそう思ったときに買いたいのだが、やはりそうはいかない。金銭事情という実際的な問題もある。しかし運よくそのへんの条件が重なることもある。

先月、あるネット上の中古品店で、とある長編叙事詩の文庫版全4巻セットが売られているのを見つけた。Amaz◯nなんかで見ても各巻値段が高騰ぎみだが、なんとそのセットというのが他で確認できるどの巻の1冊ぶんの値段よりも格安なのだ(2月半ば)。しかしよくよく眺めれば写真も掲載されていないし、状態の記載も簡素で、問い合わせも受けつけていないとくる。

賭けだった。たしかに余裕はあるのだからひと思いに注文することもできるのだが、だからといって重度にヤケありシミあり破れありボロボロの悪品を送りつけられてはたまったものではない。私は悩んだ。運命に挑戦するべきか、否か。私の戦場はイマココなのか。もっといいものが安く手に入ることもありえるのでは?

いや、これまでなかったものが今後もあるわけなかろう。都合のよい思考はよせ。甘えだ。『夢遊の人々』の悲劇を繰り返すわけにはいかない。もうあんな惨めな思いはごめんだ。さあ、そのセットをカートに入れろ。ついでに他にもいろいろ買おう。必要情報を入力し、注文確定ボタンを押すのだ。私は自分の運命に挑戦した。

……そして勝利した。届いたのは経年を感じさせるがおおむね美品、しかも全巻帯付き。言うことなしの完全無欠な勝利となった。そして友人のあの言葉が正しいことを完璧なかたちで証明したのである。「欲しいと思ったら買い時である」と。

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書訪迷談(14):どういう男性に?

 

影の谷物語 (ちくま文庫)

影の谷物語 (ちくま文庫)

 

 

かつて、WOWOWのノンスクランブル時間帯に観ることができたアニメは、新潟というアニメ不毛の地、それも片田舎の河岸段丘の上に住まうこじらせたオタクにとって数少ない娯楽のひとつだった。当時はまだネット配信もあまり充実していなかったからテレビで観るほかなく、しかもこのへんはテレビ東京でさえ手続きを踏まないと視聴できないようなところだ。休日の朝や夕方から夜にかけてのものを除けば、ちょぼちょぼ深夜にやってるくらい。それも少なくて各クールをリアルタイムで網羅しうるようなものではなかった(はず)。

そんな田舎の救世主ノンスクで観れたアニメのひとつに『機神咆哮デモンベイン』というクトゥルフを下敷きにしたロボットモノがあった。その印象、そんなでもなかったな、と当時の私は思ったし、ぶっちゃけマイナスまであったかも。少年時代に触れたアニメは大方出来を問わず思い出補正がかかりやすいなか、自分で言うのもなんだが、なかなか厳しい評価である。のちに大学生になってから原作を遊ぶと非常に面白くて、「やはりアニメが...」などと答え合わせをしたことも追憶される。

思い上がりを言うなれば、すべてではないが他の多くの作品、特に評判のある原作を持つ作品たちと同様、あの時期にアニメ化されたこと自体が若干不運だったのかもしれない。南無。そしてこのころの悲劇の核心的悲劇性は、誰も悪くないところにある。近頃どういうわけか比較的マシになった、というのもあくまで私の観測と主観と体感による一種のドグマでしかないけれども...おっといけない、余計な妄言にまで及んでいた。それに私にとって大切ないくつか作品にも、このころのものがあるではないか。

 

話を戻す。そのアニメ版に出ていたかどうかもはや記憶がないのだが、ダンセイニくんという不定形キャラがいた。これは一種のペットというかベッドで、声も変わる不思議生物だった。題材を鑑みればこの名前も相応の意味を帯びており、神話の作者たるH.P.ラヴクラフトに影響を与えたロード・ダンセイニあるいはダンセイニ卿こと第18代ダンセイニ男爵エドワード・ジョン・モアトン・ドラックス・プランケットにちなむ。

なお私はラブクラフトクトゥルフにはそれほど興味も示さずに生きてきた人間で、作品も読んだことはなく、その近域、すなわち先達にあたるダンセイニ卿、あるいは後発世代のハワードやダーレスのような人たちの書いたものに少々だけ触れていた程度だ(ちゃんと読んだことがあるのはダーレスくらいか)。

しかし改めて収納ケースや本棚を眺めてやるに、名前を聞くばかりで済ませてきていたダンセイニの作品を自分が意外と所有していることに気づいた。文庫中心だが短編所収本も含めれば10冊ほどになる。あまり意識をせずとも見かけたら買っていたから次第に集まっていたようだ。せっかくだし利用しない手はない。自分のしたことなのにどこか他人事な気がしなくもないが、まあいいだろう。いまや、幻想文学に偉大な足跡を残し、大正期日本の文学にも影響力を有したこのアイルランド人による物語世界に踏み入る好機会を得た。『影の谷物語』はその遊行の最初の到達点である。

 

この物語には「語り手」がいる。全12章からなる話が進むのは彼の手際によるものだ。かつてこのような人物がこのような冒険をしたことを読者にお伝えするのである、というスタンスから語りがおこなわれ、時折に「こちら」を向いて人生訓めいた言辞を垂れたり、筋をはぐらかしてみたり、こういう理由があるから説明しないとか言い訳をしたり、自由にする様が実に快活である。本作はダンセイニの処女長編ではあるから相応に苦労はしていそうな気もするけれど、きっと書いていてかなり楽しかったのではないか。もちろん作者と作中の語り手をそのまま同一視しようとは思わないけれどね。

さて、まず私が注目した、というか見せつけられたとも魅せられたとも言うべきところはすぐれた人物造型だった。多くの登場者に彩られる本作だが、主役たる快男児ロドリゲスとその忠実なる従者モラーノがやはり格別にいい。とりわけ後者はどこか抜けたところがあるものの機転がきくし、自分の考えを持ち、役割と領分を弁える一方、そもそもロドリゲスに仕えることになる経緯からして普通じゃないところなど、どこをとっても最高におかしい。特にちょくちょく彼が調理をする場面などは本作屈指のオアシスではないかと思う。訳者の解説部分にも、真の主人公はモラーノかと思われるほどにダンセイニの愛着が感じられると書かれているが、ここには自分も完全な同意を示したい。

モラーノに関して個人的に特にお気に入りなところは、間違いもするところである。ゆっくりと思案し導き出す答えが主人を大いに助けることもあれば、判断が結果的に誤っていることもあり、ロドリゲスの意見に押されて流されたり、また忠実であるがゆえに出た行動で主人をひどく怒らせてしまった場面(本作でも特に好きなところ)もあったりと、必ずしも正しいというわけではない。彼の魅力としての人間くささは、こういうところからも感じられる。

その一方でその主人ロドリゲスも切れ者で、信念があり、その由緒の誇りに足る若武者だが、決して完璧超人として描かれているわけではなく、期待が外れてけっこうしっかり落ちこんだりするあたりカワイイ性格をしている。実力者なのだが彼よりも強い力を持つような人物(作中2、3人はいる)と相対して圧倒されたり、冒険が成功ばかりではないなか弱さを見せたりもしていた。そういう意味で(もちろんいい意味で)彼だってやはりどこか人間くささを隠せていない。モラーノともども実に愛すべき者たちではないか。

『影の谷物語』のもうひとつの魅力は(どうしても私の言い方だと陳腐くさくなってしまうのだが)やはり豊かな表現力だろう。それはもう上で触れた語り手や人物描写といった領域において存分に発揮されている。しかしもっと大きな領域、たとえば生活にいそしむ人々や彼らの生活圏、それを取り囲む広大で深みのある鮮やかな自然、また魔法のような想像を絶する超常などに対する感性というか、世界を把握する感覚においてダンセイニは明らかに非凡な才を示している。あらゆるところに眼差しと実感があるように思われるのだ。

ダンセイニという作家がもともと本作(舞台はスペインである)よりさらに幻想性の強い品々を創作してきたことを考えれば、魔法が存在するとはいえ、現実基調の世界を書き表すことにもさしたる難度もなかったかもしれない。だがことに戦争の描写に関しては鋭い文明批評の、天体のそれに関しては「この時代にはもうこういう観念が可能であったのか!」という感慨の、それぞれ強烈な印象を私に残してくれた。読ませてくれるではないか。私はちょろいからなんでもすぐに感動してしまうのだが、この圧倒的筆力に、ああいつでも手の届くところに他の作品も持っておいてよかったなあと思う。

最後にその表現力の関連で触れておきたいが、読後はマンドリンの音色に耳を傾けたくなる。というのも主人公ロドリゲスは剣だけではなくマンドリンを佩び、時々に歌声と演奏を披露していたからである。そこに本作の語り手の、そしてもしかしたらダンセイニの音楽観が表れている気がして、私はどこか滋味の沁みてくる感を得たのであった。引用で記事を締めくくることとしたい。

マンドリンが作られた時、マンドリンは、ただちに人間のすべての悲しみを知り、誰も定義づけることのできない、名づけようもない昔からのすべての憧れを知ったのだ。

書訪迷談(13):宝石にはいろんな色がある

 

黒い魔術

黒い魔術

 

 

めえぜるさんは小学生のころ休みごとに図書室へ行くような読書っ子だった。はやみねかおる作品や十二国記シリーズ、少年向けに訳された南総里見八犬伝を特に何度も読み返したものだ。あとドラえもんやタンタンの冒険、マンガで読む昔話や歴史や伝記なんかにも親しんだ。こういうマンガで触れた話を大人になってから読んだ『今昔物語』などで見かけたりして、ああそういう由緒のある物語だったんだなあなどと懐かしがることもある。

そんなだから当然のように運動は苦手だったが、わが故郷はそれが盛んな地域で西住流よろしく逃げるという選択肢はなかった。私も中学に進むと兄の影響で陸上競技に熱中するようになり、いつのまにかそれが普通のこととなり、高校卒業まで続け、結局大した選手にはなれないまま引退した。しかし周囲を見ると、中学の同級生はスキー全中優勝、ひとつ下ふたつ下の後輩にもそれぞれ全国覇者がいて、上位入賞者もたびたび出ている。高校で私が所属した陸上部は強豪というより古豪という趣だったが、七種競技で全国ランク1位の先輩や走高跳でインターハイ王者になった先輩と一緒に練習をしていたのは、思えばいろいろすごかった。そういや高校の同学年に冬季五輪代表になったやつもいる。

 

で、なぜそんな話をしたか。実はそれなりの環境で陸上に熱中して曲がりなりにもスポーツマンとなったはいいものの、こんどは逆にまったく本を読まなくなってしまったのである。というか読めなくなっていた。このころまともに読んだ数が冗談抜きに指折りで足りそうなレベルだったし、読解力がなさすぎて、それがないことに受験を終えるまで気づかなかった始末だ。私の大学生活は、言葉の感覚を取り戻す、というよりそれを(もはや生まれて初めてのような意気で)身につける努力とともに始まらなければならなかった。あれからもうかなり経って文字への抵抗は消えたが、読書が苦手という感覚そのものは完全になくならない。考え方もいまだになんとなく脳筋なところがある。

そんな払底して教養のない時代(いまはあるみたいな言い方はやめろ)の私でも随分と面白がって読めた数少ない作品のひとつに大デュマの『三銃士』がある。文庫で上下巻ほどではあるものの、手にとる前は古典だしなあと構えていたが意外と読みやすく、ところによってカギカッコの会話が数ページ続いているものだから「こういうのもあるんだな〜」とえらく感心した記憶がある。現在まで映像化や翻案の多い作品だが、それも納得の面白さとエンタメ性だった。ちなみに個人的にはリチャード・レスター監督の映画『三銃士』『四銃士』が好き。

さて、ここでようやく本題に半歩だけ入るが、この文庫版の訳者というのが生島遼一という京都の仏文学者である。本業の学問のかたわら観世流の能を舞う藝の人で、含蓄のある随筆をいくつも遺した。そのひとつ、『春夏秋冬』所収の「横光利一の文学」において、久しぶりに横光作品を読んだ所感を、彼はこう書いている。

横光さんの場合、私はこの人の作品に一種の偏見をもち、敬遠しがちだった。フランスの二流作家ポール・モォランの訳文から影響されたなどという《新感覚派》文体に或るうさんくささ[原文傍点]を感じていた。有名な純粋小説論にしてもそうである。今度読み直した感想は、それだから、回想などというより、全く新しいものを読むような気持だった。(p.40)

このごろモダニズム文学への興味から横光利一の本を、特に文庫として出ているものを中心にちょぼちょぼ集めているので気になる記述だったが、ここで問題にしたいのはさらっと二流作家の刻印を押されてしまった人物のほうである。ここで言うのはつまり堀口大學の訳した『夜ひらく』などのことだろうが、生島はその作者をばっさりと切る。横光についてはこのあと少し思い出に触れながら相応に回収した感がある一方「モォラン」氏はこれっきり打ち棄てられている。なんか、ちょっとかわいそう。

それはともかく、門外漢ゆえ日本文壇への影響など詳しい知識を要することにはこれ以上触れないが、好奇心からこの「ポール・モラン」という人の小説を読んでみたく思った。だが古本を探すと手間だし、彼の友人だったシャネルについての本は興味から明らかに逸れるし、大きめの図書館で借りるしかないかなあと億劫がっていた矢先、昨年に新しく小説の翻訳が出ていたことを知る。このご時世にまったく時宜を得るとは言いがたい訳業、たいへんありがたいことである。これぞ人文学。こうしてさりげなく出しているところがまったくもって素晴らしい。

 

『黒い魔術』を注文をし、手元に届いたらしばらく棚に漬けておいてのち、さあ読むぞと向かおうとしたとき、ちょっとオヤッコレハッとなった。本書は1920年代にフランス人作家が著した黒人についての小説である。そこが心配で、つまりあからさまな西洋中心主義的偏見とか差別意識が見られたらどうしようかという恐れだ。それはたしかに時代性として仕方がない部分があるし、世にいわゆる古典的名作の多くにだって少なからずあるものだし、私からどうこう言えたものではないのだが(というかわざわざ言いたくない)、もし悪意がにじむようであれば苦手なタイプの可能性もある。未知の文人ゆえに作風も察することができないため、多少の緊迫感があった。

しかし、そのへんはほとんど杞憂だったと表現して差しつかえない。

収録されている短篇はいずれも面白く、強力な読みごたえがあった。なにより物語のパワーに満ち、彩りに彩りを重ねたような文体は(少なからぬ揶揄を帯びるきらいもあるが)けっこう癖になる。むろんこの時代に黒人を題材として筆をとる安易さ、あるいは勇気、ないしは安易な勇気すなわち無謀も否定できない。さらに作中ことあるごとに黒人という存在が魔術と結びつけられている点においても、未開社会に対する白人ならではの視線を嗅ぎとれなくもない。なるほどやはりこのへんはある種の時代性、どうしようもない「既定値」なのだろう。

その一方で(念のため言い添えておくが正当化や擁護が目的ではない)、黒人の肉体の美しさにかかる描写などは相応に実感のこもったもので、果たして「作者は自分の意見にかかわらずフィクション上ではどのように書くこともできる」という定理で片づけられるのだろうかと思った。黒人や混血という存在に対する白人たちの「いやらしさ」の描写は、差別を自明として疑わない者にここまで可能なのだろうか、と感じうるものでもあった。訳者解説でもモランのアンビヴァレントな側面に触れているが、どうも一筋縄ではいかないような器だ。それが実態の姿なのかどうか、普通に作家を読もうとするよりも掴めない(単純に情報が少ないからというのもあるだろうけど)。

時代の人間でありつつ、外交官だったことによりそうだが、ローカルな問題にとどまらない世界感覚から問題を見据えて考えたような雰囲気のある彼は、先進的ではないにしても例外的な人間、あるいは過渡期的な人物ではあったのかもしれない。ゴビノー的なペシミズムの影がちらつくというモランにその手の意識がなかったとは思えないが、刊行から1世紀近くを経ようとする現在にあっても、白人が見る黒人という決まった枠に限らないスケールでの幅広い問題に関し、本作は十分に私を悩ませてくれるものである。そしてもちろんそうしたテーマを取り払って読んでも強烈な印象を残す小説であることも強調しておきたい。たしかにプルーストスタンダールのような正統派文芸とは異なるわけで一流ではないかもしれないのだが、傍流や我流にしか出せない二流なりの持ち味というものがあるだろうし、それはけっこういいものかもしれない。それに世の中にはこんな小説がある、こういう表現をしてもいいんだ、と知ることができるとなにより心強い安心感を覚えるのである。

 

個人的に、生きることは悩むことだと思っている。悩むとき、なかなか生の実感がある。だからこういう作品に出会えたのはよかった。私は上手な答えの出し方なんて求めてはいない。答えを欲してはいないからだ。あるいは欲しいものは答えではないからであるとも言える。まあずっとウダウダやっていたらなにも決まらないのでやりすぎもよくないが、上手な悩み方を身につけたい。

意識的に人を嫌わないようにしても、しばしば自分のなかの悪意に苛む。嘘をつくなと口では言っていても、虚栄心がそれをさせようとする。差別や暴力は絶対やってはいけないことなのに、自分のなかには明らかにその衝動がある。これらのジレンマに自分で安易に答えを与えてしまうと、自分は大丈夫だと盲目的になったりとか、人間はそういうものだと開き直って正当化したりとか、そういう道しか選べないという気がしてならない。

人々の争いが目に入ると、答えを出してこんなことに巻きこまれるくらいなら悩んでいたほうがよっぽどマシだ、と思ってしまう私のこの思い上がりもなんだかエラソーで自分で気にくわなくて、やはり悩んでしまうのだけど。

もちろんこういうことにだって理想的な解がないわけではなく、その希望を捨ててはいけない。ただ仮に解答できても目まぐるしく変化する世界ではすぐ通用しなくなるかもしれないし、答えを出したあとにはそのつどまた悩ましき世界に戻りたい。自分なりにはそれが理想である。もがくほど痛切な苦悩ばかりとなるようなのはさすがにゴメンだが、悩みも考え方次第ではないかと思う。うまいこと付き合ってゆくのが健全ではないだろうか。あ、またなんかエラソー!

本当に小さくて個人的な快挙

気がつけば2月も三分の一に差しかかろうというのにブログを更新していなかった。油断ならない。読むほうは遅々としているが少しずつ取り戻せてきたし、書くほうは順調でも不調でもない。とにかく普通。けれど、とにかく普通ほど安心できるものはないなとも思う。しかもここにきて体調と精神と、いい具合にバランスをとれてきているのだ。先般の山梨旅行がよかったのだろうな。

 

それでは描くほうはどうか。まあこれも普通。昨日も昼間に思いついたネタをメモしておいて、帰る途中にふつふつ煮詰め、帰ったら帰ったでなかなか思うようにならなくて苦戦しつつ、挙句の果てに煮こぼれしそうになるも、まあなんとか相応の最低限のかたちにしてツイッターにアップできたという次第だった。ありがたいことに私のような中途半端な創作しかできない人間の作品にも反応があり、昨日のものは私にしては珍しいくらいの評価をいただけた。

たくさんリツイートやいいねをしていただけることは当然のこと嬉しくあるのだが、そもそもたとえひとつだけでも、どんな方にしてもらったとしても、それは本当にありがたく喜ばしいことだと思っている。もちろんフォロワーの多い方にリツイートをしてもらったり、私には及びもつかないほどのレベルの方からなぜかいいねをもらったりすると興奮してしまうこともあるが、これは「ナンデ!?」という驚きのほうが大きい。いずれにせよ個人的にはどんな場合でも、リツイートひとつ、いいねひとつ、それぞれ平等だということには変わらないと考えるものである。

ただ、ただ、昨日の絵においてはそこに例外を作らざるをえない。

実はリスくんさんからいいねをもらえたのである。感動でときめいてしまった。いまさら言うまでもなくリスくん氏が私からしたら天上人であることは自明で、ガルパンの同人世界で大きな足跡を残してきた人であるからして当然なのだが、実はここには一方的な思い出がある。

私がガルパンにハマって最初に買った同人誌は氏の西ダジ本だった。劇場版からガルパンに入り、特にいいなと思ったのがダージリン(というか聖グロのみんな)と西さんで、その2人がいい感じに仲良くしてる豊かな発想がたまらなった。以前いたカイワイでやらかしてトラウマを負った私はまだあれこれ妄想を広げることにかなりの躊躇があったけれど、この本のおかげでその楽しさを思い出せた節がある。リスくんさんは私の想像力の恩人なのである。直接の因果ではないが、創作を続けられたのも、ドピコながら同人サークルみたいなこともできるようになったのも、根っこの経験にはあの西ダジ本があるのではないかと思う。

本当に正直を申すと、あまりに強烈すぎる作風からすべてのお仕事を追っているわけではなく、尊敬ゆえに遠ざけているところもある。そしてそもそも私の貧弱な発想と実力を考えれば、罷り間違おうとも接点が生じることはありえないだろうと思っていた。

しかし、どうしてか昨日の絵にいいねが付いていた。いい意味での評価をしてもらった(と見て差しつかえないよね……?)というのだ。「ウッッッソ、マジでリスくんがワイの絵を認識したんかッ!!!!??? なんで????」みたいな感じで眠気がみんな吹っ飛んでしまったけれど、そのあと冷静になりきって、思い出をほんのり回顧し、今度は感動がじわじわと湧きあがってきた。本当は全身を動かしたかったけれど、近隣の迷惑にならないように、私は心の中で歓喜の小躍りをした。

ガルパンにハマり、それからなぜか創作までするようになり、2年ちょっと。まさかこんなことが起こるとは思っていなかった。もちろんいいねをもらえたということは、どれほどすごい人からもらえたのだとしても、ひとつのいいね、ひとつの出来事でしかない。むろん接点ができたというわけではない。私の実力が向上したことの直接的な証明にはならない。ただ、やっぱりいいなとか、創作って楽しいなとか、そう思えた。私はまたユカイに酔い、ステキに勘違いし、またしばらく詩的に思い上がるための機会を得た。そういうことでしかなかった。それは世間的に見れば小さいことかもしれないが、存分に私のためになることであった。

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あの道を往く

 

街道手帖 (シュルレアリスムの本棚)

街道手帖 (シュルレアリスムの本棚)

 

 

本がぜんぜん進まない。幸い創作で書くほうは乗ってきた感があるが全般的に読めなくなっている今日このごろ。どうしてなのかわからない。なにか得られるという手応えを感じられなかったり、単純に読むのが疲れるから面倒だったり、そのへんだろうか。描くにしても書くにしても、そういうときはある。

そこで無理をすることはない。対処法がわかっているならともかく、闇雲に動こうとすればさらなる苦悩を誘発するだけだ。スランプというのは自分の精神感覚と身体感覚の把握に対する無配慮からくると思う。ましてや私はなにかのプロではないわけで、できねーときはやらねーを地でゆきたいのだ。読めねえなら書訪も迷談もできねえ。

だからといってそれではここに書くことがなくなってしまう。そして怠慢なら怠慢なりにできることがありそうだ。対処というほどでもないが、自分の思う本を読むということが「最初から最後まで読みきる」ことを表している場合、そうする必要がない抜け道を探せばいいのである。このときにうってつけなのが詩集、名言集、辞書や事典(なにかテーマに特化した手軽なタイプがよい)、断章集といった本、つまり「どこから開いても大丈夫な本」だろう。この種の書籍は旅のおともにも適している。

 

で、本棚を眺めてみると、けっこうそういうのは並んでいる(自分の趣向が反映されているはずなので当然)。詩集は揃っているがその気分ではないなあ、と思ったところで目に入ったのがジュリアン・グラック『街道手帖』だった。この人は十年ちょっと前まで生きていたフランスの作家で、そのうちまとめて読みたいと思って作品をちまちま買い集めていたのであるが、本書は彼の実質最後の著作となった断章集である。これをテキトーに開いて、ぱらぱらとめくってみる。そしてこんな節が見つかるーー少々長いがまるまる引用しよう。

年をとるごとに少しずつ課されてきているささやかな禁欲、つまり煙草やアルコールや過食の自粛などは、当節流行りのあまり品のない表現で言うところの「創造性」に影響を及ぼさずにはおかない。土から上がってきて循環する樹液がいささか過剰であったり、生理学的な交換がより豊かになされたりすることは、芸術家の最良の生産性の条件のひとつなのだ。また資質[原文傍点]と呼ばれるものは、芸術家においては単なる感受性や想像力や性格の問題ではない。高い生産性を誇る芸術の主導者なら誰でもーーたとえその人が取りこんで消費するものが、ときに特定が困難だったりデリケートだったりするものだとしてもーー、これは信じて欲しいのだが、どこかに大食漢[原文傍点]を隠しているものなのだ。(p.246-247)

な、なんてことだ。いろいろ読み方は可能だが、なんとなくさぼってんじゃねーぞと言われている気がする。べ、べつに俺ァ芸術家じゃねーし生産力はもともと低い初心者だから練習しているんであってヨォ......ということなのだけど。それにしても作家なら酒も煙草も禁欲しすぎるなというのを97まで生きた人が言うのだからおっかない(この本を出した時点でも80を越えてるし)。自分も着実に加齢してきたけれど、冷静にこんな言辞を繰り出せるようになれるとはまったく思えん。

それはともかく、たしかに私はなにか道の者ではないが、なんとなくわからないでもない。この断章の特に後半部分では、高次な創作的生産性の背景には大量摂取があるとしているが、いくら自分がそういう生産力を求めていないところでも、それはそれで純然たる事実に違いないのである。この話は多くの分野で当てはまる。

私の恩師のひとりが卒論指導の際に毎回(そしておそらく毎年)しつこく言っていたのが大意として「質は量からしか生まれない」ということだった。優れた卒業論文を書くためには大量の文献にあたらないといけない。どうやっても余計な知識ばかり手に入るが、それをまとめて、肉を削ぎ落とし、さらに贅肉を削ぎ落として、ようやく本物ができあがる。まあ基本的な情報を書くだけならば概説書なりなんなり数冊でもあればできるかもしれない。しかしやはり1冊読んだだけでは書けないこと、10冊読まなければ書けないこと、100冊読んでやっと書けることというのが、そうしているうちに自ずと浮かびあがってくるのである。執筆物中にそんな文章がひとつあるだけでも、その全体の完成度は根本から一変するのだ。

量が質を保証するとは限らないが、たいてい質は量により裏づけられる。質の高いものを目指すと言いながら怠けて面倒くさがって最低限で済ませたがると、仮にそれなりに書けたとしても、見るからに文面がいっぱいいっぱいで余裕がないし、それでいて見かけでは文字が詰まっているのにどこか空虚であるようにしか受け取られなくなってしまう。だから私の卒論はそういうものになったのだ。楽をしようとすると廻り道に入り迷ってしまうという好例だ……いまでも迷ったままの気がしないでもない。

さて、話を戻すが、グラックによればこの件は芸術家に関してであった。力ある表現者はどこか「大食漢」であるという。ここで思い出されるのがよく聞くインプットとアウトプットの関係だ。しばしばこのバランスが大事だなどと見かける。私も同感である。だが実際のところアウトプットの量に対して膨大なインプットが必要であり、ある意味アンバランスな様相というのがその正体ではなかろうか。あるいはこの不均衡を立派に確立して初めて本当のバランスと言えるのかもしれない。当然ながら、どちらにせよ質を伴うたくさんの創作をしたいならば相当多数のものに触れ、ひいては吸収しなければならない。私はこの時点でもう遅れている。イベントで本を出すのも年一が限界。それも完成しなかったわけだから正しくは1年で0.8冊くらいしか書けていない。

とまれここでグラックの言うところの肝は、まずそれなりの奢侈を許して楽しむための精神的余裕が必要なことであろう。ここでお決まりの乱暴な解釈を押し進めてみると、この「大食漢」がただ大量に食べるだけでなく「美食家」の面も有しているところがあるように読めてくる。「芸術家」という語彙の選択からは、たとえば《私は文章を書いているから良い文章を書くために文章を読みます》といった泥縄的な道筋の付け方に限定させまいとする、ある程度まで広く視野を持とうとする意図を感じた。もっと態度とか感性とか、あるいはライフスタイルとか、そういう話まで根を伸ばしているように思う。煙草やアルコールに親しめば想像力が活性化すると言っているのでは決してないわけで、いろいろ暮らしや食、趣味など自分の楽しみのなかで自分に合った一定のこだわりを持つよう説いている気がしてならない。

......というふうに、たったひとつの断章でもこの程度までなら話を広げることが可能である。ただ問題として私がその本質を見据えているとはとても言いがたく、結局は独りよがりな着地をしてしまって、参照先をぜんぜん尊重できていないところであるな。まあ私は読んだ気になれたし楽しかったからよかったのだが。よかねえか。こんなことをしていたら卒論の二の舞さ。

ともかくも、本を読めないとき気軽に手を伸ばせる「どこから開いても大丈夫な本」をひとつでも蔵しておくのがオススメということだ。

 

最後に再三と重ねるようだが、私はプロの芸術家ではないし目指してもいないから、そこまで大食いにもグルメにもならなくてもいいはずだ。が、それでも自分で創作をするからには可能な限り納得いくレベルのものを作りたいよなあ、とも少なからず思う。できて当然とは思わないのでジレンマになるほどではないけれど、向上心が皆無というのも生きにくい。

幸いなことに世のなかはよりよいものを作るための方法やコツに溢れていて、目的や行き先の水準に応じて歩調を整えることができるようになっている。優しい人も多い。それこそ申し訳なくなるくらいに。これは本当に本当にありがたいことだ。ただ私自身そんな世界のぬくもりに触れつつも、そこから浮わついたり沈滞したりして、隠れるように、外れ調子のマイペースで進んでいるような自覚がどうしても心に残るのだった。