続・きわめつけ

昨日のブログを書き終わり、よしそろそろ寝ようという時分のことだった。玄関口の棚の死角からピロっと紙片の角のようなものが覗いている。なんだこれと拾いあげてみると、それは不在連絡票であった。差出人欄には出版社の名前がある。あの本だ、と。しかし発売日は4月初頭のはずなのでこれには嬉しい驚きを覚えずにはいられなかった(配達員の方には申し訳なかった)。どうやら昨日が著者の命日だったようで、納得した次第である。当日中に受け取ることはできなかったけれど、出版人の粋を見た。ということで届いた書籍はこちら。

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私は椿實をこれから読もうとしている人間なので、いま語れることはほとんどない。ただいつからか、日本の幻想文学のなかでも独特の地位を持っていた作家ということで気になっていた。それに彼を評価している面々——稲垣足穂三島由紀夫柴田錬三郎澁澤龍彦ら——からして実によいではないか。この時点で確信できるものがある。だからといっては安易なのだが、とりあえずすでに刊行されていた『メーゾン・ベルビウの猫』は買っておいたのが去年あたりの話。

そして棚にしまっているうちに今度はこの『メーゾン・ベルビウ地帯』の同版元からの発売が決まり、ついに作家の業績を網羅できるようになったのである(表記は現代的になっているが私としては許容範囲のこと)。『猫』のほうはいつも通り書店で求めたが、今回は出版社に直接予約をして購入した。その理由はいくつかある。

ひとつには、本書の初版に印字される番号のうち比較的早い数字のものを入手可能であるとの告知を得たことによる。こういうの1回やってみたかったのだ。しかし実はこの報せを受けた時点では予約の決め手にはなっていなかった。悩みに悩んだ。発売の予定日は迫る(少しだけ伸びてくれて結果的に助かった)。

しかしあるとき続報がくる。これこそふたつめの理由なのだが、前作からも今作からも漏れているが発見時期的に編集作業に間に合わず収録されなかった作品が8頁ほどの冊子の特典として付いてくるというのだ。決定打。オタクたちなら、きっとこの気持ちをわかってくれるだろうと勝手に願うものである。こういうのに弱いのがわれわれの性——SAGA——なのだ……。

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そして2作品を並べてみるとこのような感じ。

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造本からして趣味心をくすぐるし、素晴らしい仕事のあらわれとしか言いようがない。安くはないのだが、これだけのこだわりを感じられると微塵も損をした気分にならないものだ。こうして内容面でも装釘の面でも手の込んだ書籍を発売してくれる会社があるうちは、われわれのような人間(どんな人間だ?)は大丈夫だ。幻戯書房さん、やはり好きだな。たくさん持ってはないけれど、たまにどストライクを出してくれる。そうそう、このようにね。

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昨日も触れた北園克衛『白昼のスカイスクレエパア』もこの版元から出されたもの。自分でも改めて眺めてみると、なんとまあ趣味がわかりやすいことだろう。でも、なにか足りない気がしなくもない。瀧口修造かな? あれも欲しいのだが、残念、しばらくこの手の本を買うのは控えねばならない。その期間もなるべく長いほうがよい。

それでも、逆らうまでは行かなくとも時流に乗らない出版社や、時代の片隅で流行とは異なる文脈に目を向けられる愛書家の人びとを、勝手に応援する人間ではあり続けたいな。

 

そしてうちのイカしたメンバーたちもまた歓迎してくれているようす。よかったね。

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きわめつけ

専門的になにかをやらかしていたころほどではないが、Amaz◯nで本を買うとポイントの貯まること貯まること。たくさん買うとたくさんそのぶん貯まる。そしてたくさん買っていたのでたくさん貯まった。さすがにもうそろそろキリがないからそれはやめようというのが最近の決心。ということで区切りとして、ポイントを使って古書を購入した(まだ余ってるけれど)。きわめつけ、ということになるだろうか。

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詩人北園克衛の評論を集成したもので千頁弱ある。これでも厳密にはほとんど集めきれていないというのだから北園の筆力たるや驚嘆の極みだろう。ちなみに彼の書いた小説についてはこのブログでも取り上げたことがある(書訪迷談(10):そういう読書もある - ネオ・オスナブリュック歳時記)。せっかくなので並べてみた。

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しかしこの期に及んで詩ではなく敢えて評論に手を出したのはどういう了見だろう。といっても実際のところ深い考えはない。ただ私は詩人の評論とか、映画人の書いた文章とか、画家の小説とか、そういうのがなんとなく好きである。良寛さんが書家の書や詩人の詩を嫌ったというようなのではないが、専門性が別の指向性をもって一風変わった感性を輝かせるのが好きである。西脇順三郎はなんでも詩で書いたが、特にああいうのがいい。北園克衛も詩ではないものを見てもすぐさま詩人だとわかる。こういうのがすごくいいのだ。

 

うちのイカれたメンバーたちも歓迎してくれているようす。よかったね。

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ところできわめつけはもう1冊ある予定。出版社に直接注文したもので、発売日を考慮すると4月にかかってしまうかもしれないが、こちらも届いたら紹介する予定だ。

そしてこれ以降、買うより読む、買うより描く、買うより書くを実践していきたいので、こいつまた本を買ってるっぽいなという気配があったら叱ってくださるとありがたい。気配だけでいくら言っていただいても結構。そんな気配を出すくらいに我慢ができていない私が悪いのであって、気配を消失させるまではなにも達成したことにはならないのである。まあ、ちょっとは買うんだけどな(オイ)。

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書訪迷談(15):痛ましき肖像

 

エゴン・シーレ―二重の自画像 (平凡社ライブラリー)

エゴン・シーレ―二重の自画像 (平凡社ライブラリー)

 

 

「欲しいと思ったら買い時である」。友人が私にかけてくれた金言だ。その場で購入するか否か散々に迷って諦めたけれど、帰路のもの寂しさから変心をもよおし、やはり買おう、明日買おうなどと決心して次の日も再訪するがもう売れてしまっていた......なんて経験が一度二度では済まない程度の回数あると、この言葉も随分と響くものだ。痛いほどに。

つまらぬ出し惜しみをしたせいで特に強く後悔した思い出がある。もう何年もまえ、ある古書店ヘルマン・ブロッホ『夢遊の人々』文庫版が上下巻揃いの美品として3000円で売られていたのを買い逃したときだ。決して安くはないが価値を考えればお手頃だというのに、財布と相談しつつ手を引いてしまった。あとは上に書いた流れのとおり。まったく、まったくもって惜しいことをした。

どうしてこれほどまでに悔いが大きいのか。というのも、その文学作品としての質もさることながら、文庫版は各巻でエゴン・シーレの「ほおずきの実のある自画像」と「ウァリーの肖像」が表紙になっていて、豪華な装釘ではないものの、一体の完成されたパッケージとして実に洗練された存在感を誇示しているのだ。シーレとブロッホ、同時代を経験するふたりの同世代の同国人による、後生の作為による合体技。わが手中に来たるべき書物、いまだ千秋を想う。

デザイン面で優れるとか、材質にこだわるとか、適切に内容を象徴するとかした表紙は世の中に多かれど、心の深みまで刺さるものは限られる。機会や出会うまでの文脈にもかかる。個人的に、マルセル・ブリヨン『幻想芸術』や坂部恵『モデルニテ ・バロック』などを見たときも同様に、その表紙への絵画のあしらい方に格別な感動を覚えた。言うなれば四次元的対象を視たような......そのような選択の妙により、内容を反映した書影を与えられるだけにとどまらず、化学反応さながらの作用で訴求力を帯びはじめ、諸要素の組み合わせであるところの単なる「合計」ではなくそれ以上に豊かな「全体」として存在感を得ることがある。

あくまで私が拡大解釈的にそういうドラマ性を見出してしまったという個人的な感覚体験の話でしかないが、それにしても前提として編集の側で優れた仕事がなされなくてはならない。ここまでくると技能や知識の問題を超越している。審美的情緒を震撼させるため、関係性の美学を追求できる感覚、すなわち詩情がなければならないと思うのだけれど、どうだろう。

 

本題に入る。エゴン・シーレの話題について考えたら上の流れになったのであるが、見事に着地しなかった(導入ヘタクソすぎかよ)。

シーレはわりあいに私の好きな画家だ。といっても詳しくないから感覚でいいなと思うだけで、ざっくり夭折の画家であることを知るのみだった。だけどやはりあの一見歪なような美しい身体感覚が私の心をどこか穿つのであり、興味は持ちつづけていた。そんなある日、ふと坂崎乙郎の著作を読みたくなったので蔵書をごそごそとしてみると、この『エゴン・シーレ 二重の自画像』が示し合わせたように見つかったのである。

本書は伝記であるから、生い立ちから家族関係、人間関係や経歴などをなぞりゆくものである。実際、いろいろなことを知ることができた。父や叔父がシーレにとってどういう存在であったのかなど興味深く、投獄の経験は痛ましく、また画風に関しても短い人生における変遷がはっきりわかる。

しかしこれは本質的には目的意識の明確な美術評論であり、絵画の詳細な分析が比較を交えながら、時にシーレの内面を探りながら、じっくりなされてゆく。対比されるのはゴッホクリムト、ココシュカといった画家たちであるが、必ずしも芸術家に縛られない。ときたま差し挟まれるムージル(本書ではムジール表記)の『特性のない男』の記述は、シーレのことを語ったものではないのに違和感なく収まり示唆的だ。そして誰よりもウァリー。彼女の存在が、シーレにとってそうであったように、あまりにも大きい。全10章中、第7章と第8章がそれぞれ「ウァリーⅠ」「ウァリーⅡ」に割りあてられていることを見れば一目瞭然である。

この記事の第3段落で触れた肖像と自画像についての記述もある。坂崎によれば、 

同一人物がかりそめに男と、女の形をとって現れたにすぎない。(p.150) 

本書を読み進めるゆけばゆくほど、シーレとウァリーの関係が男と女や画家とモデルなどへと単純に還元されえない不可逆的なものに思われてならなくなる。それほどの重大さ。それゆえか、著者はシーレのみならずウァリーの内面にも分けいり、それを露わにする。ふたりをまるで同一視する。関係性の完成形と見なしたのであろう。ウァリーとわかれて別の女性と結婚したシーレを、画家として幸福であるなどと決して描写していない。あまつさえ、ある面においては後退と言いきる。

結論ありきの批評や過剰な読みこみには一種の「越権行為」を感じてしまい、いつもなら好きになれないことが多い。しかし本書の叙述はすれすれの行軍を継続しながら、その種の嫌みったらしさを放っていない。疑問を抱くよりも先に、坂崎乙郎エゴン・シーレの、時代も国籍も異なるはずの両者の気質の親和性だろうと思いあたった。日記などシーレ自身の言葉が引用されることもあるが(本書とは別に邦訳もある)、不思議と著者の論調にしっくり沿う。著者がシーレに合わせようとしたという無理強いの感もない。あるべくしてある。もっと核心的な問題ではなかろうか。それがなんなのか、知る由もない。あるいは私の思い違いか。

「二重の自画像」という副題は意味深、というより多義的である。シーレは自分が2人、3人と重なっている自画像もいくつも残しているから、そこにちなんだものには違いない。しかし坂崎の心眼で見れば、それが時にはシーレとウァリーとなるのであり、画家自身の複数性であろうとしていない。それに本書ではウァリー以外にも父アドルフ、ゴッホクリムトらも本書の主役の随走人に選ばれているが、彼らとの重なりもまた一時的ではあっても「二重」の様相を見せる。それゆえ自画像はもっと多重と判断することもできるかもしれないが、象徴的にはやはり「二重」なのだ。

しかしまだもうひとり、いる気がしないだろうか。シーレとの重なりを見せる人物の気配を感じないだろうか。私には心当たりがある。それは著者、坂崎乙郎である。もちろん彼は本文中で自分とシーレを同一視しようとはしていない。思うに、する必要がなかった。

シーレが28で死んだのに対し、坂崎はその倍とほんの少し生きた。逆に言えば、前者ほど極端ではないが、たったの57で死んだ。スペイン風邪で亡くなったシーレとは異なり、自裁である。シーレと同じく生前は世間から必ずしも広く評価されなかった、盟友の鴨居玲自死を追ったのだとされる。既述してあるように国籍も年代も異なり、出自もまた違って、どこにも共通点はない。しかしどうしてか、輪郭は揺らぎながら、重なろうとしているように感じられる。

エゴン・シーレ』は遺著だった。あとがきによれば、長らく書きたいと思っていたのだそうだ。その筆致は迫り、夢中にありそうで醒め、過剰に生き生きとして、生々しいとさえ言える。これほどまで文体に生を宿らせてしまったら、肉体はもう死ぬしかない。彼は最後の著作の執筆中から自分の死を本当に覚悟していたのではないかとさえ思う。研ぎ澄まされた感性。シーレもその持ち主だった。それはあまりにも鋭く、よく言われるようにあまりにも脆い。それで痛々しく切りつけることしかできなかった。誰を? 書く対象、ここではシーレを。すなわち自分自身を。

つまり言いたいのは、本書が坂崎によるシーレへの追悼文であり、自身の遺言であり、画家ではない人間により描かれた自画像の試みだったのではないか、ということである。だからこそ読後、心のなかにふたつの並ぶ絵画が見えたのではなく、「二重の自画像」がかかっているように感じられたのだ。

 

本の内容をよく理解していないことは、混乱した文章からもおわかりと思う。ごまかしばかり、まことに進歩がない。ここまで半ば確信的にテキトウをこいてきたが、自分でつけた傷だらけの身のままこの世を去った彼らのことを思うと、私の文章などすべて陳腐に帰するしかないだろう。というか私こそが「越権行為」の張本人なのでは?

ところでクリムト展が4月から東京都美術館で開催されることは知っていたのだけど、ほぼ同時期に国立新美術館で「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」というのも開かれるそうだ。基本的にはクリムトが人気なのだろうが、それに乗じてシーレも、特に後者の展示ではじっくり鑑賞することができそうで待ち遠しい。

 

最後になるが、本記事の導入で書いたように買いたいものはそう思ったときに買いたいのだが、やはりそうはいかない。金銭事情という実際的な問題もある。しかし運よくそのへんの条件が重なることもある。

先月、あるネット上の中古品店で、とある長編叙事詩の文庫版全4巻セットが売られているのを見つけた。Amaz◯nなんかで見ても各巻値段が高騰ぎみだが、なんとそのセットというのが他で確認できるどの巻の1冊ぶんの値段よりも格安なのだ(2月半ば)。しかしよくよく眺めれば写真も掲載されていないし、状態の記載も簡素で、問い合わせも受けつけていないとくる。

賭けだった。たしかに余裕はあるのだからひと思いに注文することもできるのだが、だからといって重度にヤケありシミあり破れありボロボロの悪品を送りつけられてはたまったものではない。私は悩んだ。運命に挑戦するべきか、否か。私の戦場はイマココなのか。もっといいものが安く手に入ることもありえるのでは?

いや、これまでなかったものが今後もあるわけなかろう。都合のよい思考はよせ。甘えだ。『夢遊の人々』の悲劇を繰り返すわけにはいかない。もうあんな惨めな思いはごめんだ。さあ、そのセットをカートに入れろ。ついでに他にもいろいろ買おう。必要情報を入力し、注文確定ボタンを押すのだ。私は自分の運命に挑戦した。

……そして勝利した。届いたのは経年を感じさせるがおおむね美品、しかも全巻帯付き。言うことなしの完全無欠な勝利となった。そして友人のあの言葉が正しいことを完璧なかたちで証明したのである。「欲しいと思ったら買い時である」と。

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書訪迷談(14):どういう男性に?

 

影の谷物語 (ちくま文庫)

影の谷物語 (ちくま文庫)

 

 

かつて、WOWOWのノンスクランブル時間帯に観ることができたアニメは、新潟というアニメ不毛の地、それも片田舎の河岸段丘の上に住まうこじらせたオタクにとって数少ない娯楽のひとつだった。当時はまだネット配信もあまり充実していなかったからテレビで観るほかなく、しかもこのへんはテレビ東京でさえ手続きを踏まないと視聴できないようなところだ。休日の朝や夕方から夜にかけてのものを除けば、ちょぼちょぼ深夜にやってるくらい。それも少なくて各クールをリアルタイムで網羅しうるようなものではなかった(はず)。

そんな田舎の救世主ノンスクで観れたアニメのひとつに『機神咆哮デモンベイン』というクトゥルフを下敷きにしたロボットモノがあった。その印象、そんなでもなかったな、と当時の私は思ったし、ぶっちゃけマイナスまであったかも。少年時代に触れたアニメは大方出来を問わず思い出補正がかかりやすいなか、自分で言うのもなんだが、なかなか厳しい評価である。のちに大学生になってから原作を遊ぶと非常に面白くて、「やはりアニメが...」などと答え合わせをしたことも追憶される。

思い上がりを言うなれば、すべてではないが他の多くの作品、特に評判のある原作を持つ作品たちと同様、あの時期にアニメ化されたこと自体が若干不運だったのかもしれない。南無。そしてこのころの悲劇の核心的悲劇性は、誰も悪くないところにある。近頃どういうわけか比較的マシになった、というのもあくまで私の観測と主観と体感による一種のドグマでしかないけれども...おっといけない、余計な妄言にまで及んでいた。それに私にとって大切ないくつか作品にも、このころのものがあるではないか。

 

話を戻す。そのアニメ版に出ていたかどうかもはや記憶がないのだが、ダンセイニくんという不定形キャラがいた。これは一種のペットというかベッドで、声も変わる不思議生物だった。題材を鑑みればこの名前も相応の意味を帯びており、神話の作者たるH.P.ラヴクラフトに影響を与えたロード・ダンセイニあるいはダンセイニ卿こと第18代ダンセイニ男爵エドワード・ジョン・モアトン・ドラックス・プランケットにちなむ。

なお私はラブクラフトクトゥルフにはそれほど興味も示さずに生きてきた人間で、作品も読んだことはなく、その近域、すなわち先達にあたるダンセイニ卿、あるいは後発世代のハワードやダーレスのような人たちの書いたものに少々だけ触れていた程度だ(ちゃんと読んだことがあるのはダーレスくらいか)。

しかし改めて収納ケースや本棚を眺めてやるに、名前を聞くばかりで済ませてきていたダンセイニの作品を自分が意外と所有していることに気づいた。文庫中心だが短編所収本も含めれば10冊ほどになる。あまり意識をせずとも見かけたら買っていたから次第に集まっていたようだ。せっかくだし利用しない手はない。自分のしたことなのにどこか他人事な気がしなくもないが、まあいいだろう。いまや、幻想文学に偉大な足跡を残し、大正期日本の文学にも影響力を有したこのアイルランド人による物語世界に踏み入る好機会を得た。『影の谷物語』はその遊行の最初の到達点である。

 

この物語には「語り手」がいる。全12章からなる話が進むのは彼の手際によるものだ。かつてこのような人物がこのような冒険をしたことを読者にお伝えするのである、というスタンスから語りがおこなわれ、時折に「こちら」を向いて人生訓めいた言辞を垂れたり、筋をはぐらかしてみたり、こういう理由があるから説明しないとか言い訳をしたり、自由にする様が実に快活である。本作はダンセイニの処女長編ではあるから相応に苦労はしていそうな気もするけれど、きっと書いていてかなり楽しかったのではないか。もちろん作者と作中の語り手をそのまま同一視しようとは思わないけれどね。

さて、まず私が注目した、というか見せつけられたとも魅せられたとも言うべきところはすぐれた人物造型だった。多くの登場者に彩られる本作だが、主役たる快男児ロドリゲスとその忠実なる従者モラーノがやはり格別にいい。とりわけ後者はどこか抜けたところがあるものの機転がきくし、自分の考えを持ち、役割と領分を弁える一方、そもそもロドリゲスに仕えることになる経緯からして普通じゃないところなど、どこをとっても最高におかしい。特にちょくちょく彼が調理をする場面などは本作屈指のオアシスではないかと思う。訳者の解説部分にも、真の主人公はモラーノかと思われるほどにダンセイニの愛着が感じられると書かれているが、ここには自分も完全な同意を示したい。

モラーノに関して個人的に特にお気に入りなところは、間違いもするところである。ゆっくりと思案し導き出す答えが主人を大いに助けることもあれば、判断が結果的に誤っていることもあり、ロドリゲスの意見に押されて流されたり、また忠実であるがゆえに出た行動で主人をひどく怒らせてしまった場面(本作でも特に好きなところ)もあったりと、必ずしも正しいというわけではない。彼の魅力としての人間くささは、こういうところからも感じられる。

その一方でその主人ロドリゲスも切れ者で、信念があり、その由緒の誇りに足る若武者だが、決して完璧超人として描かれているわけではなく、期待が外れてけっこうしっかり落ちこんだりするあたりカワイイ性格をしている。実力者なのだが彼よりも強い力を持つような人物(作中2、3人はいる)と相対して圧倒されたり、冒険が成功ばかりではないなか弱さを見せたりもしていた。そういう意味で(もちろんいい意味で)彼だってやはりどこか人間くささを隠せていない。モラーノともども実に愛すべき者たちではないか。

『影の谷物語』のもうひとつの魅力は(どうしても私の言い方だと陳腐くさくなってしまうのだが)やはり豊かな表現力だろう。それはもう上で触れた語り手や人物描写といった領域において存分に発揮されている。しかしもっと大きな領域、たとえば生活にいそしむ人々や彼らの生活圏、それを取り囲む広大で深みのある鮮やかな自然、また魔法のような想像を絶する超常などに対する感性というか、世界を把握する感覚においてダンセイニは明らかに非凡な才を示している。あらゆるところに眼差しと実感があるように思われるのだ。

ダンセイニという作家がもともと本作(舞台はスペインである)よりさらに幻想性の強い品々を創作してきたことを考えれば、魔法が存在するとはいえ、現実基調の世界を書き表すことにもさしたる難度もなかったかもしれない。だがことに戦争の描写に関しては鋭い文明批評の、天体のそれに関しては「この時代にはもうこういう観念が可能であったのか!」という感慨の、それぞれ強烈な印象を私に残してくれた。読ませてくれるではないか。私はちょろいからなんでもすぐに感動してしまうのだが、この圧倒的筆力に、ああいつでも手の届くところに他の作品も持っておいてよかったなあと思う。

最後にその表現力の関連で触れておきたいが、読後はマンドリンの音色に耳を傾けたくなる。というのも主人公ロドリゲスは剣だけではなくマンドリンを佩び、時々に歌声と演奏を披露していたからである。そこに本作の語り手の、そしてもしかしたらダンセイニの音楽観が表れている気がして、私はどこか滋味の沁みてくる感を得たのであった。引用で記事を締めくくることとしたい。

マンドリンが作られた時、マンドリンは、ただちに人間のすべての悲しみを知り、誰も定義づけることのできない、名づけようもない昔からのすべての憧れを知ったのだ。

書訪迷談(13):宝石にはいろんな色がある

 

黒い魔術

黒い魔術

 

 

めえぜるさんは小学生のころ休みごとに図書室へ行くような読書っ子だった。はやみねかおる作品や十二国記シリーズ、少年向けに訳された南総里見八犬伝を特に何度も読み返したものだ。あとドラえもんやタンタンの冒険、マンガで読む昔話や歴史や伝記なんかにも親しんだ。こういうマンガで触れた話を大人になってから読んだ『今昔物語』などで見かけたりして、ああそういう由緒のある物語だったんだなあなどと懐かしがることもある。

そんなだから当然のように運動は苦手だったが、わが故郷はそれが盛んな地域で西住流よろしく逃げるという選択肢はなかった。私も中学に進むと兄の影響で陸上競技に熱中するようになり、いつのまにかそれが普通のこととなり、高校卒業まで続け、結局大した選手にはなれないまま引退した。しかし周囲を見ると、中学の同級生はスキー全中優勝、ひとつ下ふたつ下の後輩にもそれぞれ全国覇者がいて、上位入賞者もたびたび出ている。高校で私が所属した陸上部は強豪というより古豪という趣だったが、七種競技で全国ランク1位の先輩や走高跳でインターハイ王者になった先輩と一緒に練習をしていたのは、思えばいろいろすごかった。そういや高校の同学年に冬季五輪代表になったやつもいる。

 

で、なぜそんな話をしたか。実はそれなりの環境で陸上に熱中して曲がりなりにもスポーツマンとなったはいいものの、こんどは逆にまったく本を読まなくなってしまったのである。というか読めなくなっていた。このころまともに読んだ数が冗談抜きに指折りで足りそうなレベルだったし、読解力がなさすぎて、それがないことに受験を終えるまで気づかなかった始末だ。私の大学生活は、言葉の感覚を取り戻す、というよりそれを(もはや生まれて初めてのような意気で)身につける努力とともに始まらなければならなかった。あれからもうかなり経って文字への抵抗は消えたが、読書が苦手という感覚そのものは完全になくならない。考え方もいまだになんとなく脳筋なところがある。

そんな払底して教養のない時代(いまはあるみたいな言い方はやめろ)の私でも随分と面白がって読めた数少ない作品のひとつに大デュマの『三銃士』がある。文庫で上下巻ほどではあるものの、手にとる前は古典だしなあと構えていたが意外と読みやすく、ところによってカギカッコの会話が数ページ続いているものだから「こういうのもあるんだな〜」とえらく感心した記憶がある。現在まで映像化や翻案の多い作品だが、それも納得の面白さとエンタメ性だった。ちなみに個人的にはリチャード・レスター監督の映画『三銃士』『四銃士』が好き。

さて、ここでようやく本題に半歩だけ入るが、この文庫版の訳者というのが生島遼一という京都の仏文学者である。本業の学問のかたわら観世流の能を舞う藝の人で、含蓄のある随筆をいくつも遺した。そのひとつ、『春夏秋冬』所収の「横光利一の文学」において、久しぶりに横光作品を読んだ所感を、彼はこう書いている。

横光さんの場合、私はこの人の作品に一種の偏見をもち、敬遠しがちだった。フランスの二流作家ポール・モォランの訳文から影響されたなどという《新感覚派》文体に或るうさんくささ[原文傍点]を感じていた。有名な純粋小説論にしてもそうである。今度読み直した感想は、それだから、回想などというより、全く新しいものを読むような気持だった。(p.40)

このごろモダニズム文学への興味から横光利一の本を、特に文庫として出ているものを中心にちょぼちょぼ集めているので気になる記述だったが、ここで問題にしたいのはさらっと二流作家の刻印を押されてしまった人物のほうである。ここで言うのはつまり堀口大學の訳した『夜ひらく』などのことだろうが、生島はその作者をばっさりと切る。横光についてはこのあと少し思い出に触れながら相応に回収した感がある一方「モォラン」氏はこれっきり打ち棄てられている。なんか、ちょっとかわいそう。

それはともかく、門外漢ゆえ日本文壇への影響など詳しい知識を要することにはこれ以上触れないが、好奇心からこの「ポール・モラン」という人の小説を読んでみたく思った。だが古本を探すと手間だし、彼の友人だったシャネルについての本は興味から明らかに逸れるし、大きめの図書館で借りるしかないかなあと億劫がっていた矢先、昨年に新しく小説の翻訳が出ていたことを知る。このご時世にまったく時宜を得るとは言いがたい訳業、たいへんありがたいことである。これぞ人文学。こうしてさりげなく出しているところがまったくもって素晴らしい。

 

『黒い魔術』を注文をし、手元に届いたらしばらく棚に漬けておいてのち、さあ読むぞと向かおうとしたとき、ちょっとオヤッコレハッとなった。本書は1920年代にフランス人作家が著した黒人についての小説である。そこが心配で、つまりあからさまな西洋中心主義的偏見とか差別意識が見られたらどうしようかという恐れだ。それはたしかに時代性として仕方がない部分があるし、世にいわゆる古典的名作の多くにだって少なからずあるものだし、私からどうこう言えたものではないのだが(というかわざわざ言いたくない)、もし悪意がにじむようであれば苦手なタイプの可能性もある。未知の文人ゆえに作風も察することができないため、多少の緊迫感があった。

しかし、そのへんはほとんど杞憂だったと表現して差しつかえない。

収録されている短篇はいずれも面白く、強力な読みごたえがあった。なにより物語のパワーに満ち、彩りに彩りを重ねたような文体は(少なからぬ揶揄を帯びるきらいもあるが)けっこう癖になる。むろんこの時代に黒人を題材として筆をとる安易さ、あるいは勇気、ないしは安易な勇気すなわち無謀も否定できない。さらに作中ことあるごとに黒人という存在が魔術と結びつけられている点においても、未開社会に対する白人ならではの視線を嗅ぎとれなくもない。なるほどやはりこのへんはある種の時代性、どうしようもない「既定値」なのだろう。

その一方で(念のため言い添えておくが正当化や擁護が目的ではない)、黒人の肉体の美しさにかかる描写などは相応に実感のこもったもので、果たして「作者は自分の意見にかかわらずフィクション上ではどのように書くこともできる」という定理で片づけられるのだろうかと思った。黒人や混血という存在に対する白人たちの「いやらしさ」の描写は、差別を自明として疑わない者にここまで可能なのだろうか、と感じうるものでもあった。訳者解説でもモランのアンビヴァレントな側面に触れているが、どうも一筋縄ではいかないような器だ。それが実態の姿なのかどうか、普通に作家を読もうとするよりも掴めない(単純に情報が少ないからというのもあるだろうけど)。

時代の人間でありつつ、外交官だったことによりそうだが、ローカルな問題にとどまらない世界感覚から問題を見据えて考えたような雰囲気のある彼は、先進的ではないにしても例外的な人間、あるいは過渡期的な人物ではあったのかもしれない。ゴビノー的なペシミズムの影がちらつくというモランにその手の意識がなかったとは思えないが、刊行から1世紀近くを経ようとする現在にあっても、白人が見る黒人という決まった枠に限らないスケールでの幅広い問題に関し、本作は十分に私を悩ませてくれるものである。そしてもちろんそうしたテーマを取り払って読んでも強烈な印象を残す小説であることも強調しておきたい。たしかにプルーストスタンダールのような正統派文芸とは異なるわけで一流ではないかもしれないのだが、傍流や我流にしか出せない二流なりの持ち味というものがあるだろうし、それはけっこういいものかもしれない。それに世の中にはこんな小説がある、こういう表現をしてもいいんだ、と知ることができるとなにより心強い安心感を覚えるのである。

 

個人的に、生きることは悩むことだと思っている。悩むとき、なかなか生の実感がある。だからこういう作品に出会えたのはよかった。私は上手な答えの出し方なんて求めてはいない。答えを欲してはいないからだ。あるいは欲しいものは答えではないからであるとも言える。まあずっとウダウダやっていたらなにも決まらないのでやりすぎもよくないが、上手な悩み方を身につけたい。

意識的に人を嫌わないようにしても、しばしば自分のなかの悪意に苛む。嘘をつくなと口では言っていても、虚栄心がそれをさせようとする。差別や暴力は絶対やってはいけないことなのに、自分のなかには明らかにその衝動がある。これらのジレンマに自分で安易に答えを与えてしまうと、自分は大丈夫だと盲目的になったりとか、人間はそういうものだと開き直って正当化したりとか、そういう道しか選べないという気がしてならない。

人々の争いが目に入ると、答えを出してこんなことに巻きこまれるくらいなら悩んでいたほうがよっぽどマシだ、と思ってしまう私のこの思い上がりもなんだかエラソーで自分で気にくわなくて、やはり悩んでしまうのだけど。

もちろんこういうことにだって理想的な解がないわけではなく、その希望を捨ててはいけない。ただ仮に解答できても目まぐるしく変化する世界ではすぐ通用しなくなるかもしれないし、答えを出したあとにはそのつどまた悩ましき世界に戻りたい。自分なりにはそれが理想である。もがくほど痛切な苦悩ばかりとなるようなのはさすがにゴメンだが、悩みも考え方次第ではないかと思う。うまいこと付き合ってゆくのが健全ではないだろうか。あ、またなんかエラソー!