書訪迷談(2):ゴーレムは夜歩く?

 

ゴーレム (白水Uブックス)
 

 

どうせ読まないのに本を持ち歩きたくなる人種がいる。私も例から漏れないが、知り合いの大学教員はいつも専門書や手軽い新書など複数冊に加えて分厚い洋書を持ち歩いていた。それもその人の専門から多少はずれた内容だったりする。なぜそんなものを?  と好奇心から尋ねるとこう返された。「これは護身用だよ」……な、なるほど、ためになる。それに倣って私もGeschichtliche Grundbegriffeあたり持ち歩こうかしらんとは少しばかり考えたものの、その筋の人の真似はなかなか難しいだろうなと諦めた。

ただ読まなくても読めなくても、いつなにを読みたくなるかわからない、という意識が働いてしまい(前回の記事にも書いたが余計な準備までして本質を忘れがちな私の悪い癖である)、結局いつも2、3冊は持ち歩くのだった。数日同じものを携えることもあれば、日替わりにする週もある。メインに読む本があればそれに専念し、他のものもつまむように開くこともあるがだいたいサブ組は読めない。完全に無駄なのだがやめられない。やめたら軽くなるのにやめられない。これを持ち歩くことで私に益するなにかと邂逅するやもしれぬ、という下心が拭いきれない。それも悪くないとは思うのだが「あいかわらずなぼく。の場合」といったところか。

ともかく、そろそろ本題に入らなければ。

 

グスタフ・マイリンクの『ゴーレム』はとても不思議な作品だった。題材といい筆致といい折り目正しく執筆された幻想文学である印象を受ける(念押ししておくけれど前回取り上げたペルッツやまた他のなんらかの作品がそうじゃなかったと言いたいわけではない)。厳密に裏打ちされたものではない情感記憶を頼りにすると、このような本を読んだのはおそらく初めてではなくて、内容の類似性はともかくとして、たしか土方巽『病める舞姫』の読後感も「こう」だった気がする…少し自信がないが…。

『ゴーレム』の主な舞台はプラハのゲットー、程度の差こそあれ終始暗闇がかった雰囲気で描かれていて、登場人物たちも悪い意味での癖だらけ。それでもどこかに人間存在の肯定を感じるのは、必ずしも私の妄言ということにはならないと思われる。まず、たしかに「生命賛歌」のような明るいものではないが「感覚や体験への執着」が感じられるし、それにカバラをはじめもろもろの神秘思想へ傾倒したマイリンクが書いたからであろうか、作中においても人間がひとつの境地へ至ろうとする必死な力を見ないではいられないのだ。上で癖があると書いた登場人物たちだが彼らが最終的にどこへ行こうというのか、次第に愛着すら湧いて、気になって仕方がなくなる自分がいた。

こうなると感想を語るのがかなり難しくなる。もちろん私が幻想文学に慣れ親しんでいないからと言い訳もできるが、それ以上に、いやそもそもそれ以前に、この『ゴーレム』に出てくる人々を見ながら話の筋書きを追ううち(その恩恵にあずかってだろうか!?)読者もある種の境地を垣間見るか、ほんの少しだけでも近づいた感覚を抱くことがありうるからだと主張したい。あまりの大きな感動に打ちひしがれて「いいよね…いい…(自問自答)」としか言えなくなってから先どのように自然主義的誤謬をなるべく冒さないまま語ることができるかを、私も悩みの種としてきた。そんななか作中で「奇跡」の到来を待つ女性ミルヤムのセリフを読んだとき、答えが出たわけではないがハッとした。他にも印象的に響く、あるいは私の心の深いところを突き刺してくるアフォリズムめいた言辞は多かったが、これは格別だった。かなり強引に持ってきてしまうことになり恐縮だが、以下に引用する。

「こんなこと、口に出して言ったら、もうすぐにいやな、俗っぽい色合いを帯びて、それでわたし、あんまりーー」

『ゴーレム』はたしかに不思議な作品だった。そして安易な作品ではなかった。しかし、いまやとても私にとって価値のある作品となっている。音が聞こえてきそうなほどびくびくでどろどろとしていた作風と裏腹に、あの結末を迎えて、読後には不思議と心地よく爽やかなものが残った。人に推薦しなさいと言われても、やはりそう簡単にできる気がしない。ただこの作品の存在を知ったのであれば一読まで行かないのはちょっともったいない、と思い上がりそうになってしまう。私などは不器用な読者だが、それでさえちょっとなにかしらの境地の端っこくらいには触れられたのだから。実に、実によい読書体験であった。

 

ところで今日も今日とて、私は主に読み進めている『マイリンク幻想小説集』に加え、さらに2冊ほど別の本を持ち歩いていた。ひとつはもちろん『ゴーレム』であり、ここに感想を書くため参照したかったので何度も開いている。だが案の定というべきか、もう1冊は現時点まで読んでいない(別に偉そうにすることではない)。エルンスト・ユンガー『パリ日記』である。これは完全に本棚を眺めながら「君に決めた!」というノリでカバンにねじ込んだものでしかなかったが、のちのちこれが驚くべき奇縁を呼びこんだのである。帰宅途中、我慢できなくなってある古書店を訪れてしまっためえぜるさんはかねてから欲しかった本をふたつも見つけてしまう。そして非常に安価だったこともあって最終的にこれらを購入した。以下参照。

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ユンガーの『砂時計の書』が見えるだろうか? そう、つまり私が持ち歩いていた本の著者の別の作品と出会えたのである。私などはこれだけの一致でさえ「おおっ、お守りは待つもんだな」と思わず感動してしまうほどちょろいのだが、またひとつ注目してほしいのは訳者だ。今村孝。この人は実はマイリンク『ゴーレム』の訳者でもある。このたまたま携行することにした2冊の本がなんとも妙なかたちで重なりを見せて目前に現れたことに、本当は本当にどうということはないはずなのに、私はなんだか嬉しくなってしまい、心のなかで小躍りをしながら家路をふらふらと流れてゆくのだった。今日もいい日だった、と無邪気に思い出を振り返りながら。