書訪迷談(8):だからよ、忘れるんじゃねぇぞ…

 

死を忘れるな (白水Uブックス)

死を忘れるな (白水Uブックス)

 

 

引き続きスパークでスパーキングなデイズを。なにせとても楽しい。彼女の魅力は訳者が変わって損なわれるどころかもっと強く惹起されてくる。古典的な名曲をタイプの違う指揮者や楽団の演奏で聴くようなものだろう。ちょっとやそっとのこと(訳者が異なることが!)でぶれてぼやけるような本質ではないということか。

ミュリエル・スパーク『死を忘れるな』には、とにかく老人ばかりが出てくる。加齢で身体が痛んだり病んだり耄碌したり意外と健康であったりするにせよ、みなよく動き、そうでなければよく喋り、あるいはよく考える。年齢はおよそ70代以上で立場も性格も多種多様、それぞれがなにかしら悩みを抱えたり、楽しんだり、そして人によってはあっさり死ぬ。これに関しスパークは一切容赦しない。おじいさんおばあさんにいったいなんの怨みが、と思われるほどに。例によって本当に楽しみながら書いていたのかもしれないが果たして…。

ところで、めえぜるさんは要領がたいへんに悪い。本作でも実に賑やかな人間模様は慣れるまでに多少の苦労があった。だが予感もしていたのである、これは絶対に面白いアレやん、と。自分にしては比較的早く順応し没入できたので、こうなればもうこちらのものである。

「死ぬ運命を忘れるな」という本作の主題は言うまでもなく登場人物に向けられているものだが、読者にとってもどこか示唆的、いやそのまま直言と受け取れるかもしれない。個人的な話で脱線を図り恐縮だが、今年2月に祖母が亡くなり、このとき私は初めて直接の家族の死に直面することとなった。101まで生きたという高祖母の死から30年以上わが家では不幸がなく、縁戚や親しい知人の葬儀には行ったことがあっても、本当の意味で私に身近な人の死は初めてだった。そして、私にとっても死が身近となった。はっきり具体的な現象として面前し、その想念が意識に宿った。死が身近になるという表現は、必ずしも死期が迫るという意味に限られない。死を考えることができるようになると、むしろ生命力が刺激されてくる気もする。

牽強付会ぎみに話を戻すと、スパークの『死を忘れるな』という本はどこかそういう向きの資質を備えていたようだ。ある日、突然電話がかかってくる。何回もかかってくる。「死ぬ運命を忘れるな」と…こう言われた者はどのような反応をするだろう。慌てたり、ひどく狼狽して悩んだり、具体的には遺言状を書き換えたり、誰か知り合いを疑ったり、他方でそれについてはもうずっと考えてきたと返答する者もいたり、なかったことにしたりと一様にない。それぞれ大なり小なり異なるにせよ、老い先が短い人々が死を意識して行動すると、ならではの問題が次々と起こる。なんでもないと思われたことも死と関連する。すると尽きる瞬間のろうそくのように(瞬間というほどの域でもないが)現世にぶわっと「生」の証が現れてくるのである。それは、たとえ何者かに焚きつけられたものであるにしても、間違いなく「死」を思うことによって顕現したのだ。40かそこらでこの小説を書いたスパークが見据えていた老境の世界は、既にあまりにも灼然たるものになっている…。

「七十を越すというのは戦争に行くことですわ。仲間はみんなもう死んだか死にかけているか、あたしたちはその死んだひとびと、死んでゆくひとびとのなかで生き残っていて。まるで戦場みたいに。」

老人問題を理解するにはいろんな人と友達になったり、スパイを使ったり同盟を結んだりしなければならぬ。

訳者である永川玲二の「ミュリエル・スパークという小説家は現代におけるすばらしい道化だとぼくは思う」という指摘には思わず唸った。その面からスパークの作品の特徴が挙げられる。おもしろおかしいこと、簡潔な言葉づかいの名人であること、着想が突飛であること、人間世界のさまざまな真実を直視する洞察力と勇気とをそなえていること。この4点であるが、これは前回読んだ短編集にも見事に当てはまるではないか。『死を忘れるな』についても、私は読んでいてなぜこれほど容赦ないのに嫌な気がしないのだろうと思っていたけれど、抜け目なくそのヒントもあった。「毎日の生活のなかでぼくたちが忘れたい、目をそむけたいと思っている不快な真実を彼女は容赦なく掘りおこすけれども、底意地の悪さとは紙ひとえのところで、奔放な笑いやいたずらっぽさによって彼女の発言はいつも爽快な後味を残す」。ああ、だからやはり楽しみながらでないと書けないのだなあ、こういう、これほどのものは。

 

そういえばスパークも大戦期には諜報機関に勤めていた人である。わざわざ挙げないが、こういうところから作家が多く輩出されているのはどういう所以なのだろう(ちなみにあとがきではその事実とは無関係にあくまでカトリック作家としてグレアム・グリーンとスパークとの比較がなされている)。作家になりそうな人が諜報機関と親和性が高いのか、諜報機関にいた人が作家になりやすい、あるいはそれに資する経験をするのか、それとも従事していた人間の割合からして作家になる者は実は少数で有意な統計は出てこないのか、まあわからないが興味深いことだ。そしていずれにせよGI6こと聖グロリアーナ女学院の情報処理学部第6課にスパークというメンバーがいてもまったく不思議ではないことがいまや明白なのである。