あの道を往く

 

街道手帖 (シュルレアリスムの本棚)

街道手帖 (シュルレアリスムの本棚)

 

 

本がぜんぜん進まない。幸い創作で書くほうは乗ってきた感があるが全般的に読めなくなっている今日このごろ。どうしてなのかわからない。なにか得られるという手応えを感じられなかったり、単純に読むのが疲れるから面倒だったり、そのへんだろうか。描くにしても書くにしても、そういうときはある。

そこで無理をすることはない。対処法がわかっているならともかく、闇雲に動こうとすればさらなる苦悩を誘発するだけだ。スランプというのは自分の精神感覚と身体感覚の把握に対する無配慮からくると思う。ましてや私はなにかのプロではないわけで、できねーときはやらねーを地でゆきたいのだ。読めねえなら書訪も迷談もできねえ。

だからといってそれではここに書くことがなくなってしまう。そして怠慢なら怠慢なりにできることがありそうだ。対処というほどでもないが、自分の思う本を読むということが「最初から最後まで読みきる」ことを表している場合、そうする必要がない抜け道を探せばいいのである。このときにうってつけなのが詩集、名言集、辞書や事典(なにかテーマに特化した手軽なタイプがよい)、断章集といった本、つまり「どこから開いても大丈夫な本」だろう。この種の書籍は旅のおともにも適している。

 

で、本棚を眺めてみると、けっこうそういうのは並んでいる(自分の趣向が反映されているはずなので当然)。詩集は揃っているがその気分ではないなあ、と思ったところで目に入ったのがジュリアン・グラック『街道手帖』だった。この人は十年ちょっと前まで生きていたフランスの作家で、そのうちまとめて読みたいと思って作品をちまちま買い集めていたのであるが、本書は彼の実質最後の著作となった断章集である。これをテキトーに開いて、ぱらぱらとめくってみる。そしてこんな節が見つかるーー少々長いがまるまる引用しよう。

年をとるごとに少しずつ課されてきているささやかな禁欲、つまり煙草やアルコールや過食の自粛などは、当節流行りのあまり品のない表現で言うところの「創造性」に影響を及ぼさずにはおかない。土から上がってきて循環する樹液がいささか過剰であったり、生理学的な交換がより豊かになされたりすることは、芸術家の最良の生産性の条件のひとつなのだ。また資質[原文傍点]と呼ばれるものは、芸術家においては単なる感受性や想像力や性格の問題ではない。高い生産性を誇る芸術の主導者なら誰でもーーたとえその人が取りこんで消費するものが、ときに特定が困難だったりデリケートだったりするものだとしてもーー、これは信じて欲しいのだが、どこかに大食漢[原文傍点]を隠しているものなのだ。(p.246-247)

な、なんてことだ。いろいろ読み方は可能だが、なんとなくさぼってんじゃねーぞと言われている気がする。べ、べつに俺ァ芸術家じゃねーし生産力はもともと低い初心者だから練習しているんであってヨォ......ということなのだけど。それにしても作家なら酒も煙草も禁欲しすぎるなというのを97まで生きた人が言うのだからおっかない(この本を出した時点でも80を越えてるし)。自分も着実に加齢してきたけれど、冷静にこんな言辞を繰り出せるようになれるとはまったく思えん。

それはともかく、たしかに私はなにか道の者ではないが、なんとなくわからないでもない。この断章の特に後半部分では、高次な創作的生産性の背景には大量摂取があるとしているが、いくら自分がそういう生産力を求めていないところでも、それはそれで純然たる事実に違いないのである。この話は多くの分野で当てはまる。

私の恩師のひとりが卒論指導の際に毎回(そしておそらく毎年)しつこく言っていたのが大意として「質は量からしか生まれない」ということだった。優れた卒業論文を書くためには大量の文献にあたらないといけない。どうやっても余計な知識ばかり手に入るが、それをまとめて、肉を削ぎ落とし、さらに贅肉を削ぎ落として、ようやく本物ができあがる。まあ基本的な情報を書くだけならば概説書なりなんなり数冊でもあればできるかもしれない。しかしやはり1冊読んだだけでは書けないこと、10冊読まなければ書けないこと、100冊読んでやっと書けることというのが、そうしているうちに自ずと浮かびあがってくるのである。執筆物中にそんな文章がひとつあるだけでも、その全体の完成度は根本から一変するのだ。

量が質を保証するとは限らないが、たいてい質は量により裏づけられる。質の高いものを目指すと言いながら怠けて面倒くさがって最低限で済ませたがると、仮にそれなりに書けたとしても、見るからに文面がいっぱいいっぱいで余裕がないし、それでいて見かけでは文字が詰まっているのにどこか空虚であるようにしか受け取られなくなってしまう。だから私の卒論はそういうものになったのだ。楽をしようとすると廻り道に入り迷ってしまうという好例だ……いまでも迷ったままの気がしないでもない。

さて、話を戻すが、グラックによればこの件は芸術家に関してであった。力ある表現者はどこか「大食漢」であるという。ここで思い出されるのがよく聞くインプットとアウトプットの関係だ。しばしばこのバランスが大事だなどと見かける。私も同感である。だが実際のところアウトプットの量に対して膨大なインプットが必要であり、ある意味アンバランスな様相というのがその正体ではなかろうか。あるいはこの不均衡を立派に確立して初めて本当のバランスと言えるのかもしれない。当然ながら、どちらにせよ質を伴うたくさんの創作をしたいならば相当多数のものに触れ、ひいては吸収しなければならない。私はこの時点でもう遅れている。イベントで本を出すのも年一が限界。それも完成しなかったわけだから正しくは1年で0.8冊くらいしか書けていない。

とまれここでグラックの言うところの肝は、まずそれなりの奢侈を許して楽しむための精神的余裕が必要なことであろう。ここでお決まりの乱暴な解釈を押し進めてみると、この「大食漢」がただ大量に食べるだけでなく「美食家」の面も有しているところがあるように読めてくる。「芸術家」という語彙の選択からは、たとえば《私は文章を書いているから良い文章を書くために文章を読みます》といった泥縄的な道筋の付け方に限定させまいとする、ある程度まで広く視野を持とうとする意図を感じた。もっと態度とか感性とか、あるいはライフスタイルとか、そういう話まで根を伸ばしているように思う。煙草やアルコールに親しめば想像力が活性化すると言っているのでは決してないわけで、いろいろ暮らしや食、趣味など自分の楽しみのなかで自分に合った一定のこだわりを持つよう説いている気がしてならない。

......というふうに、たったひとつの断章でもこの程度までなら話を広げることが可能である。ただ問題として私がその本質を見据えているとはとても言いがたく、結局は独りよがりな着地をしてしまって、参照先をぜんぜん尊重できていないところであるな。まあ私は読んだ気になれたし楽しかったからよかったのだが。よかねえか。こんなことをしていたら卒論の二の舞さ。

ともかくも、本を読めないとき気軽に手を伸ばせる「どこから開いても大丈夫な本」をひとつでも蔵しておくのがオススメということだ。

 

最後に再三と重ねるようだが、私はプロの芸術家ではないし目指してもいないから、そこまで大食いにもグルメにもならなくてもいいはずだ。が、それでも自分で創作をするからには可能な限り納得いくレベルのものを作りたいよなあ、とも少なからず思う。できて当然とは思わないのでジレンマになるほどではないけれど、向上心が皆無というのも生きにくい。

幸いなことに世のなかはよりよいものを作るための方法やコツに溢れていて、目的や行き先の水準に応じて歩調を整えることができるようになっている。優しい人も多い。それこそ申し訳なくなるくらいに。これは本当に本当にありがたいことだ。ただ私自身そんな世界のぬくもりに触れつつも、そこから浮わついたり沈滞したりして、隠れるように、外れ調子のマイペースで進んでいるような自覚がどうしても心に残るのだった。