書訪迷談(13):宝石にはいろんな色がある

 

黒い魔術

黒い魔術

 

 

めえぜるさんは小学生のころ休みごとに図書室へ行くような読書っ子だった。はやみねかおる作品や十二国記シリーズ、少年向けに訳された南総里見八犬伝を特に何度も読み返したものだ。あとドラえもんやタンタンの冒険、マンガで読む昔話や歴史や伝記なんかにも親しんだ。こういうマンガで触れた話を大人になってから読んだ『今昔物語』などで見かけたりして、ああそういう由緒のある物語だったんだなあなどと懐かしがることもある。

そんなだから当然のように運動は苦手だったが、わが故郷はそれが盛んな地域で西住流よろしく逃げるという選択肢はなかった。私も中学に進むと兄の影響で陸上競技に熱中するようになり、いつのまにかそれが普通のこととなり、高校卒業まで続け、結局大した選手にはなれないまま引退した。しかし周囲を見ると、中学の同級生はスキー全中優勝、ひとつ下ふたつ下の後輩にもそれぞれ全国覇者がいて、上位入賞者もたびたび出ている。高校で私が所属した陸上部は強豪というより古豪という趣だったが、七種競技で全国ランク1位の先輩や走高跳でインターハイ王者になった先輩と一緒に練習をしていたのは、思えばいろいろすごかった。そういや高校の同学年に冬季五輪代表になったやつもいる。

 

で、なぜそんな話をしたか。実はそれなりの環境で陸上に熱中して曲がりなりにもスポーツマンとなったはいいものの、こんどは逆にまったく本を読まなくなってしまったのである。というか読めなくなっていた。このころまともに読んだ数が冗談抜きに指折りで足りそうなレベルだったし、読解力がなさすぎて、それがないことに受験を終えるまで気づかなかった始末だ。私の大学生活は、言葉の感覚を取り戻す、というよりそれを(もはや生まれて初めてのような意気で)身につける努力とともに始まらなければならなかった。あれからもうかなり経って文字への抵抗は消えたが、読書が苦手という感覚そのものは完全になくならない。考え方もいまだになんとなく脳筋なところがある。

そんな払底して教養のない時代(いまはあるみたいな言い方はやめろ)の私でも随分と面白がって読めた数少ない作品のひとつに大デュマの『三銃士』がある。文庫で上下巻ほどではあるものの、手にとる前は古典だしなあと構えていたが意外と読みやすく、ところによってカギカッコの会話が数ページ続いているものだから「こういうのもあるんだな〜」とえらく感心した記憶がある。現在まで映像化や翻案の多い作品だが、それも納得の面白さとエンタメ性だった。ちなみに個人的にはリチャード・レスター監督の映画『三銃士』『四銃士』が好き。

さて、ここでようやく本題に半歩だけ入るが、この文庫版の訳者というのが生島遼一という京都の仏文学者である。本業の学問のかたわら観世流の能を舞う藝の人で、含蓄のある随筆をいくつも遺した。そのひとつ、『春夏秋冬』所収の「横光利一の文学」において、久しぶりに横光作品を読んだ所感を、彼はこう書いている。

横光さんの場合、私はこの人の作品に一種の偏見をもち、敬遠しがちだった。フランスの二流作家ポール・モォランの訳文から影響されたなどという《新感覚派》文体に或るうさんくささ[原文傍点]を感じていた。有名な純粋小説論にしてもそうである。今度読み直した感想は、それだから、回想などというより、全く新しいものを読むような気持だった。(p.40)

このごろモダニズム文学への興味から横光利一の本を、特に文庫として出ているものを中心にちょぼちょぼ集めているので気になる記述だったが、ここで問題にしたいのはさらっと二流作家の刻印を押されてしまった人物のほうである。ここで言うのはつまり堀口大學の訳した『夜ひらく』などのことだろうが、生島はその作者をばっさりと切る。横光についてはこのあと少し思い出に触れながら相応に回収した感がある一方「モォラン」氏はこれっきり打ち棄てられている。なんか、ちょっとかわいそう。

それはともかく、門外漢ゆえ日本文壇への影響など詳しい知識を要することにはこれ以上触れないが、好奇心からこの「ポール・モラン」という人の小説を読んでみたく思った。だが古本を探すと手間だし、彼の友人だったシャネルについての本は興味から明らかに逸れるし、大きめの図書館で借りるしかないかなあと億劫がっていた矢先、昨年に新しく小説の翻訳が出ていたことを知る。このご時世にまったく時宜を得るとは言いがたい訳業、たいへんありがたいことである。これぞ人文学。こうしてさりげなく出しているところがまったくもって素晴らしい。

 

『黒い魔術』を注文をし、手元に届いたらしばらく棚に漬けておいてのち、さあ読むぞと向かおうとしたとき、ちょっとオヤッコレハッとなった。本書は1920年代にフランス人作家が著した黒人についての小説である。そこが心配で、つまりあからさまな西洋中心主義的偏見とか差別意識が見られたらどうしようかという恐れだ。それはたしかに時代性として仕方がない部分があるし、世にいわゆる古典的名作の多くにだって少なからずあるものだし、私からどうこう言えたものではないのだが(というかわざわざ言いたくない)、もし悪意がにじむようであれば苦手なタイプの可能性もある。未知の文人ゆえに作風も察することができないため、多少の緊迫感があった。

しかし、そのへんはほとんど杞憂だったと表現して差しつかえない。

収録されている短篇はいずれも面白く、強力な読みごたえがあった。なにより物語のパワーに満ち、彩りに彩りを重ねたような文体は(少なからぬ揶揄を帯びるきらいもあるが)けっこう癖になる。むろんこの時代に黒人を題材として筆をとる安易さ、あるいは勇気、ないしは安易な勇気すなわち無謀も否定できない。さらに作中ことあるごとに黒人という存在が魔術と結びつけられている点においても、未開社会に対する白人ならではの視線を嗅ぎとれなくもない。なるほどやはりこのへんはある種の時代性、どうしようもない「既定値」なのだろう。

その一方で(念のため言い添えておくが正当化や擁護が目的ではない)、黒人の肉体の美しさにかかる描写などは相応に実感のこもったもので、果たして「作者は自分の意見にかかわらずフィクション上ではどのように書くこともできる」という定理で片づけられるのだろうかと思った。黒人や混血という存在に対する白人たちの「いやらしさ」の描写は、差別を自明として疑わない者にここまで可能なのだろうか、と感じうるものでもあった。訳者解説でもモランのアンビヴァレントな側面に触れているが、どうも一筋縄ではいかないような器だ。それが実態の姿なのかどうか、普通に作家を読もうとするよりも掴めない(単純に情報が少ないからというのもあるだろうけど)。

時代の人間でありつつ、外交官だったことによりそうだが、ローカルな問題にとどまらない世界感覚から問題を見据えて考えたような雰囲気のある彼は、先進的ではないにしても例外的な人間、あるいは過渡期的な人物ではあったのかもしれない。ゴビノー的なペシミズムの影がちらつくというモランにその手の意識がなかったとは思えないが、刊行から1世紀近くを経ようとする現在にあっても、白人が見る黒人という決まった枠に限らないスケールでの幅広い問題に関し、本作は十分に私を悩ませてくれるものである。そしてもちろんそうしたテーマを取り払って読んでも強烈な印象を残す小説であることも強調しておきたい。たしかにプルーストスタンダールのような正統派文芸とは異なるわけで一流ではないかもしれないのだが、傍流や我流にしか出せない二流なりの持ち味というものがあるだろうし、それはけっこういいものかもしれない。それに世の中にはこんな小説がある、こういう表現をしてもいいんだ、と知ることができるとなにより心強い安心感を覚えるのである。

 

個人的に、生きることは悩むことだと思っている。悩むとき、なかなか生の実感がある。だからこういう作品に出会えたのはよかった。私は上手な答えの出し方なんて求めてはいない。答えを欲してはいないからだ。あるいは欲しいものは答えではないからであるとも言える。まあずっとウダウダやっていたらなにも決まらないのでやりすぎもよくないが、上手な悩み方を身につけたい。

意識的に人を嫌わないようにしても、しばしば自分のなかの悪意に苛む。嘘をつくなと口では言っていても、虚栄心がそれをさせようとする。差別や暴力は絶対やってはいけないことなのに、自分のなかには明らかにその衝動がある。これらのジレンマに自分で安易に答えを与えてしまうと、自分は大丈夫だと盲目的になったりとか、人間はそういうものだと開き直って正当化したりとか、そういう道しか選べないという気がしてならない。

人々の争いが目に入ると、答えを出してこんなことに巻きこまれるくらいなら悩んでいたほうがよっぽどマシだ、と思ってしまう私のこの思い上がりもなんだかエラソーで自分で気にくわなくて、やはり悩んでしまうのだけど。

もちろんこういうことにだって理想的な解がないわけではなく、その希望を捨ててはいけない。ただ仮に解答できても目まぐるしく変化する世界ではすぐ通用しなくなるかもしれないし、答えを出したあとにはそのつどまた悩ましき世界に戻りたい。自分なりにはそれが理想である。もがくほど痛切な苦悩ばかりとなるようなのはさすがにゴメンだが、悩みも考え方次第ではないかと思う。うまいこと付き合ってゆくのが健全ではないだろうか。あ、またなんかエラソー!