書訪迷談(15):痛ましき肖像

 

エゴン・シーレ―二重の自画像 (平凡社ライブラリー)

エゴン・シーレ―二重の自画像 (平凡社ライブラリー)

 

 

「欲しいと思ったら買い時である」。友人が私にかけてくれた金言だ。その場で購入するか否か散々に迷って諦めたけれど、帰路のもの寂しさから変心をもよおし、やはり買おう、明日買おうなどと決心して次の日も再訪するがもう売れてしまっていた......なんて経験が一度二度では済まない程度の回数あると、この言葉も随分と響くものだ。痛いほどに。

つまらぬ出し惜しみをしたせいで特に強く後悔した思い出がある。もう何年もまえ、ある古書店ヘルマン・ブロッホ『夢遊の人々』文庫版が上下巻揃いの美品として3000円で売られていたのを買い逃したときだ。決して安くはないが価値を考えればお手頃だというのに、財布と相談しつつ手を引いてしまった。あとは上に書いた流れのとおり。まったく、まったくもって惜しいことをした。

どうしてこれほどまでに悔いが大きいのか。というのも、その文学作品としての質もさることながら、文庫版は各巻でエゴン・シーレの「ほおずきの実のある自画像」と「ウァリーの肖像」が表紙になっていて、豪華な装釘ではないものの、一体の完成されたパッケージとして実に洗練された存在感を誇示しているのだ。シーレとブロッホ、同時代を経験するふたりの同世代の同国人による、後生の作為による合体技。わが手中に来たるべき書物、いまだ千秋を想う。

デザイン面で優れるとか、材質にこだわるとか、適切に内容を象徴するとかした表紙は世の中に多かれど、心の深みまで刺さるものは限られる。機会や出会うまでの文脈にもかかる。個人的に、マルセル・ブリヨン『幻想芸術』や坂部恵『モデルニテ ・バロック』などを見たときも同様に、その表紙への絵画のあしらい方に格別な感動を覚えた。言うなれば四次元的対象を視たような......そのような選択の妙により、内容を反映した書影を与えられるだけにとどまらず、化学反応さながらの作用で訴求力を帯びはじめ、諸要素の組み合わせであるところの単なる「合計」ではなくそれ以上に豊かな「全体」として存在感を得ることがある。

あくまで私が拡大解釈的にそういうドラマ性を見出してしまったという個人的な感覚体験の話でしかないが、それにしても前提として編集の側で優れた仕事がなされなくてはならない。ここまでくると技能や知識の問題を超越している。審美的情緒を震撼させるため、関係性の美学を追求できる感覚、すなわち詩情がなければならないと思うのだけれど、どうだろう。

 

本題に入る。エゴン・シーレの話題について考えたら上の流れになったのであるが、見事に着地しなかった(導入ヘタクソすぎかよ)。

シーレはわりあいに私の好きな画家だ。といっても詳しくないから感覚でいいなと思うだけで、ざっくり夭折の画家であることを知るのみだった。だけどやはりあの一見歪なような美しい身体感覚が私の心をどこか穿つのであり、興味は持ちつづけていた。そんなある日、ふと坂崎乙郎の著作を読みたくなったので蔵書をごそごそとしてみると、この『エゴン・シーレ 二重の自画像』が示し合わせたように見つかったのである。

本書は伝記であるから、生い立ちから家族関係、人間関係や経歴などをなぞりゆくものである。実際、いろいろなことを知ることができた。父や叔父がシーレにとってどういう存在であったのかなど興味深く、投獄の経験は痛ましく、また画風に関しても短い人生における変遷がはっきりわかる。

しかしこれは本質的には目的意識の明確な美術評論であり、絵画の詳細な分析が比較を交えながら、時にシーレの内面を探りながら、じっくりなされてゆく。対比されるのはゴッホクリムト、ココシュカといった画家たちであるが、必ずしも芸術家に縛られない。ときたま差し挟まれるムージル(本書ではムジール表記)の『特性のない男』の記述は、シーレのことを語ったものではないのに違和感なく収まり示唆的だ。そして誰よりもウァリー。彼女の存在が、シーレにとってそうであったように、あまりにも大きい。全10章中、第7章と第8章がそれぞれ「ウァリーⅠ」「ウァリーⅡ」に割りあてられていることを見れば一目瞭然である。

この記事の第3段落で触れた肖像と自画像についての記述もある。坂崎によれば、 

同一人物がかりそめに男と、女の形をとって現れたにすぎない。(p.150) 

本書を読み進めるゆけばゆくほど、シーレとウァリーの関係が男と女や画家とモデルなどへと単純に還元されえない不可逆的なものに思われてならなくなる。それほどの重大さ。それゆえか、著者はシーレのみならずウァリーの内面にも分けいり、それを露わにする。ふたりをまるで同一視する。関係性の完成形と見なしたのであろう。ウァリーとわかれて別の女性と結婚したシーレを、画家として幸福であるなどと決して描写していない。あまつさえ、ある面においては後退と言いきる。

結論ありきの批評や過剰な読みこみには一種の「越権行為」を感じてしまい、いつもなら好きになれないことが多い。しかし本書の叙述はすれすれの行軍を継続しながら、その種の嫌みったらしさを放っていない。疑問を抱くよりも先に、坂崎乙郎エゴン・シーレの、時代も国籍も異なるはずの両者の気質の親和性だろうと思いあたった。日記などシーレ自身の言葉が引用されることもあるが(本書とは別に邦訳もある)、不思議と著者の論調にしっくり沿う。著者がシーレに合わせようとしたという無理強いの感もない。あるべくしてある。もっと核心的な問題ではなかろうか。それがなんなのか、知る由もない。あるいは私の思い違いか。

「二重の自画像」という副題は意味深、というより多義的である。シーレは自分が2人、3人と重なっている自画像もいくつも残しているから、そこにちなんだものには違いない。しかし坂崎の心眼で見れば、それが時にはシーレとウァリーとなるのであり、画家自身の複数性であろうとしていない。それに本書ではウァリー以外にも父アドルフ、ゴッホクリムトらも本書の主役の随走人に選ばれているが、彼らとの重なりもまた一時的ではあっても「二重」の様相を見せる。それゆえ自画像はもっと多重と判断することもできるかもしれないが、象徴的にはやはり「二重」なのだ。

しかしまだもうひとり、いる気がしないだろうか。シーレとの重なりを見せる人物の気配を感じないだろうか。私には心当たりがある。それは著者、坂崎乙郎である。もちろん彼は本文中で自分とシーレを同一視しようとはしていない。思うに、する必要がなかった。

シーレが28で死んだのに対し、坂崎はその倍とほんの少し生きた。逆に言えば、前者ほど極端ではないが、たったの57で死んだ。スペイン風邪で亡くなったシーレとは異なり、自裁である。シーレと同じく生前は世間から必ずしも広く評価されなかった、盟友の鴨居玲自死を追ったのだとされる。既述してあるように国籍も年代も異なり、出自もまた違って、どこにも共通点はない。しかしどうしてか、輪郭は揺らぎながら、重なろうとしているように感じられる。

エゴン・シーレ』は遺著だった。あとがきによれば、長らく書きたいと思っていたのだそうだ。その筆致は迫り、夢中にありそうで醒め、過剰に生き生きとして、生々しいとさえ言える。これほどまで文体に生を宿らせてしまったら、肉体はもう死ぬしかない。彼は最後の著作の執筆中から自分の死を本当に覚悟していたのではないかとさえ思う。研ぎ澄まされた感性。シーレもその持ち主だった。それはあまりにも鋭く、よく言われるようにあまりにも脆い。それで痛々しく切りつけることしかできなかった。誰を? 書く対象、ここではシーレを。すなわち自分自身を。

つまり言いたいのは、本書が坂崎によるシーレへの追悼文であり、自身の遺言であり、画家ではない人間により描かれた自画像の試みだったのではないか、ということである。だからこそ読後、心のなかにふたつの並ぶ絵画が見えたのではなく、「二重の自画像」がかかっているように感じられたのだ。

 

本の内容をよく理解していないことは、混乱した文章からもおわかりと思う。ごまかしばかり、まことに進歩がない。ここまで半ば確信的にテキトウをこいてきたが、自分でつけた傷だらけの身のままこの世を去った彼らのことを思うと、私の文章などすべて陳腐に帰するしかないだろう。というか私こそが「越権行為」の張本人なのでは?

ところでクリムト展が4月から東京都美術館で開催されることは知っていたのだけど、ほぼ同時期に国立新美術館で「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」というのも開かれるそうだ。基本的にはクリムトが人気なのだろうが、それに乗じてシーレも、特に後者の展示ではじっくり鑑賞することができそうで待ち遠しい。

 

最後になるが、本記事の導入で書いたように買いたいものはそう思ったときに買いたいのだが、やはりそうはいかない。金銭事情という実際的な問題もある。しかし運よくそのへんの条件が重なることもある。

先月、あるネット上の中古品店で、とある長編叙事詩の文庫版全4巻セットが売られているのを見つけた。Amaz◯nなんかで見ても各巻値段が高騰ぎみだが、なんとそのセットというのが他で確認できるどの巻の1冊ぶんの値段よりも格安なのだ(2月半ば)。しかしよくよく眺めれば写真も掲載されていないし、状態の記載も簡素で、問い合わせも受けつけていないとくる。

賭けだった。たしかに余裕はあるのだからひと思いに注文することもできるのだが、だからといって重度にヤケありシミあり破れありボロボロの悪品を送りつけられてはたまったものではない。私は悩んだ。運命に挑戦するべきか、否か。私の戦場はイマココなのか。もっといいものが安く手に入ることもありえるのでは?

いや、これまでなかったものが今後もあるわけなかろう。都合のよい思考はよせ。甘えだ。『夢遊の人々』の悲劇を繰り返すわけにはいかない。もうあんな惨めな思いはごめんだ。さあ、そのセットをカートに入れろ。ついでに他にもいろいろ買おう。必要情報を入力し、注文確定ボタンを押すのだ。私は自分の運命に挑戦した。

……そして勝利した。届いたのは経年を感じさせるがおおむね美品、しかも全巻帯付き。言うことなしの完全無欠な勝利となった。そして友人のあの言葉が正しいことを完璧なかたちで証明したのである。「欲しいと思ったら買い時である」と。

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