詩情を求めて

深夜のテンションでふと1年と半年弱あたりまで記憶を遡ると、むかしの縁で頼まれた面倒事の準備に必死に追われていて、それをなんとか致命傷で済ませることができた次の日、私が最初にやったことはどうしてか同人イベントへの申し込みだった。いや、実を申せばこれは友人に誘われて下北沢でうな重を食べたり焼き鳥屋で飲んだあとにしたことだったかもしれない。ちょっと前後関係が定かでないけれど、ガルパンオンリーに申し込んでいた。それに小説を書くと豪語していたのだが、なぜ敢えてそうしようとしたのかもう思い出せなくなっている。そうする以外にないという気持ちだったことは覚えているだけに不思議である。そしてこの時点からさらに半年ちょっと前、たしかに私は創作を始めていた。古い記憶を掘り起こせば中学生や高校生のころに手を出していた記憶もあるが、それは本当に文字通りの三日坊主であって、本当に始めたと言いうるのはやはり最近のことなのだ。だけどもそれだってなんとも粗末ながらに描くほうであって、しかしそれも申し込み直前まで面倒事の準備のためにふた月ほど断絶していて、なぜイベントにそれまでやっていなかった文章で参加しようと思ったのか、このあたりの動機がやはり完全に思い出せないのである。もしかしたら理由も動機もなかったのだろうか。なかったものは探しようがないのだから。それかもしかしたら村上春樹が野球を観戦していて小説家になることを思い立ったように、私も面倒事やら下北沢のうな重やらに触れたことが引鉄になってイベントに小説をもって参戦するという道筋が目前に見えてしまったのかもしれない。なんだかもはや霊感である。というか、ちょっとこの人は引き合いに出すにはあまりにも天の上の存在だ(それにそもそも私の読書歴からしてこの方のそれほどいい読者をしてきたとは言えない)。経緯はどうあれ、かくして私の処女作は逸見エリカのちょっとした小説本となった。

 

それから再び現在まで時間を戻してみると、なんと私は今秋に2冊目の小説本を出している。これは改めて自分でも驚くべきことで、去年もしたことだが拙いながら自分で挿絵まで描いているのだ(今年のものに限って補足すると、厳密には各編ないし各章の中扉であって挿絵そのものは文章のあいだにない)。去年やりかけたができなかった作品集というかたちにでき、それらしく『英国式鎮魂狂想曲』という題も与えることができた。ただただ惜しむらくは、これが未完なことだ。これに関しては私の思い上がりから生じた深刻な不見識の結果であり、買っていただいた方々にひたすら申し訳なく思うばかり…まもなく執筆再開するために立ち上がろうとしているところではあるものの、このような「前科持ち」に期待せよというのも無理な話であろうし、いまはただ生温かい視線を向けていただけることだけでもありがたいこと…しかし「未完成狂想曲」なんて笑えないどころかシューベルト先生もドン引きだろう。

 

そして、いやしかし、このタイミングでブログとは…実際自分でも思わないでもない。かなり前に表垢用に作ったものを一旦消して使い直しものだからIDに名残があるという始末の悪さもいっそうの手抜き感を際立たせる。なんであれさっさと続きを書き、購入してくれた方々に対する責任を果たすべきであるはずには違いない。けれど一方で拙作『英国式〜』を作りながら実感したのは、自分がなんとも表現慣れしていないという厳然たる事実だった。これは文章に限ったことではなく絵にも言えることだろう。私が創作を始めて以来の、表現そのものに対しての、自分によるあらゆる表現にとっての問題なのだ。だから、上記の釈明は本心からであるし、これから残されてゆくであろう記事もどなたか見てくださる方々の存在を抜きにしては語れなくなろうが、まず自分のためにこのブログを始めようと決めるに至った。ひいては私と関係してくれる人々のためになるものと強く確信している。

 

しかし不安は残る。果たして継続できるかどうか、本当にそれのみ。消す前のブログは数件しか更新しなかったものを数年ぶりに掘り返した体たらくであるし、もっともっと前にF◯2でやっていたブログは四年ほどは定期的に更新していたものの最終的には消してしまった。ツイッターのように運用するのは難しかろうが、逆にそれと異なる性質を見直してみる機会でもあると改めて思う。記事というひとつのまとまりは、ツイッターの一個の呟きよりも多くのことを書けるし、吊り下げられた一連の呟きよりもひとつのパッケージとして認識しやすい(と自分では感じているが個人差の問題だろう)。どんな作品であれ私はそういうパッケージのなかで完結しているものを比較的好むが、どちらがいいというのではなく、表現のための手札を増やせる可能性を見たい。実のところ個人的にインプット/アウトプットの単純な図式化には疑問符を浮かべてはいるが、表現慣れしてゆくためには当然なにより私がさまざまな表現に触れ、私自身がいろいろな表現をしてゆかなければならない。私は自分自身も含めた人間のあり方を考えるときいつも思う。「それはそれだけであるのではない」と。

 

ネタは定めずいろいろ書いてみようとは決めているものの、だいたいの枠は決めておいたほうがいいかもしれない。パッと思いつくのは読んだ本のことなどだろうか。友人の奇癖や、美味しかったお店の紹介や、映画の感想などもいいかもしれない。こうした話題を語ろうとすることがまず第一目的にも適って自分のためになるだろう。誰が見るのかという気もするけれど万が一に訪問してくれた方が「ふうん」くらいは感じられるくらいを目指して、ちょっとした積み重ねをしてゆければ差しあたりは及第点だろうか。あと具体的にこれという目標はないけれど、たとえば思い切ってこのブログで1000冊の本を取りあげることを目指したりしても面白いかも(松◯正剛でわなぃ…)。この場合もちろん本屋で立ち読みしたとかネットで人が読んでたものを含めてはならず、所有物であれ借りものであれ、きちんと手元に置いた本のことを言いたい。いまの自分には無理に頻度を求めることはできないけれど、どうするにせよ、せめて月に数回は更新できるようにしたい。

 

絵もやりたい。もちろん『英国式〜』の完成を含め、文章もやりたい。そんないろいろなことをしている私は、いったいなんなのだろうか。絵描きになろうとか物書きになろうとか思ってはいるわけでもなし。どちらも上達は目指しているけれど微々たるもので十分。ほんの少しの評価でもありがたく、いつの自分にも過分なものに思えてしまう。それにどちらのほうが優れているなんてことは、とてもじゃないが決めることはできない。どちらも私を深く感動せしめる。そんな言い訳じみた表明をしながら、なにを目指せるのだろうか。やはりまだそれをしっかりと明確に表現するのは難しいし、むりやり言葉にしてしまうとむしろ陳腐に感じられる気さえしてくるが(いまこの記事を書いていて重ね重ねそれを痛感している)、私は絵であれ文章であれひたすら自分が「いい…」と思えるものをそのときの自分の力で表現したい。このようなブログや小説で文章を書いていくことと絵を描いていくこととがそれぞれ無関係であるとは絶対に思われない。媒体も形式も問わず、あくまで審美的情緒をふるわせるものを表現したい。ある人の見方によると、このような意識のもとで追求されたものこそが詩であるという。だとすれば、私は詩人になりたいのかもしれない。

 

自分の「いい…」を表現しながら他人からも「いい…」と感じてもらえる。そんな詩人に私はなりたい。「いやそんなのただのオタクじゃねーか!」というのはなしで。仮にそうでも、オタクは人類が共感という機能を持ったときからいると思うね。そして詩人も一緒に誕生したのさ。

 

 

 

※本ブログは実在のオスナブリュックとはなんの関係もありません。