法事

実は、まさにたったいま帰省の途上である。昨年2月に92で亡くなった祖母の一周忌と、101まで生きたという高祖母の三十三回忌(たしか厳密には35年くらい経ってる)をガバガバ換算ながら一緒に催すからだ。ちなみに私の場合、兄弟して平成生まれなので高祖母との面識はない。ゴールデンウィークにも帰る予定だから行ったり来たりと少しせわしないけれど、なんだかんだ実家に帰れるというのは気分が落ち着いていいものだと思う。

 

例によって今回も実家に「帰省に持ってく本」問題に直面したが、結局あれこれ選んでしまいそうなところを、よく我慢して決められた、はず。読みきるための余裕と時間があるかはまだわからないけれども。身体感覚に合った本との付き合い方もまた模索の中途にある。

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続・きわめつけ

昨日のブログを書き終わり、よしそろそろ寝ようという時分のことだった。玄関口の棚の死角からピロっと紙片の角のようなものが覗いている。なんだこれと拾いあげてみると、それは不在連絡票であった。差出人欄には出版社の名前がある。あの本だ、と。しかし発売日は4月初頭のはずなのでこれには嬉しい驚きを覚えずにはいられなかった(配達員の方には申し訳なかった)。どうやら昨日が著者の命日だったようで、納得した次第である。当日中に受け取ることはできなかったけれど、出版人の粋を見た。ということで届いた書籍はこちら。

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私は椿實をこれから読もうとしている人間なので、いま語れることはほとんどない。ただいつからか、日本の幻想文学のなかでも独特の地位を持っていた作家ということで気になっていた。それに彼を評価している面々——稲垣足穂三島由紀夫柴田錬三郎澁澤龍彦ら——からして実によいではないか。この時点で確信できるものがある。だからといっては安易なのだが、とりあえずすでに刊行されていた『メーゾン・ベルビウの猫』は買っておいたのが去年あたりの話。

そして棚にしまっているうちに今度はこの『メーゾン・ベルビウ地帯』の同版元からの発売が決まり、ついに作家の業績を網羅できるようになったのである(表記は現代的になっているが私としては許容範囲のこと)。『猫』のほうはいつも通り書店で求めたが、今回は出版社に直接予約をして購入した。その理由はいくつかある。

ひとつには、本書の初版に印字される番号のうち比較的早い数字のものを入手可能であるとの告知を得たことによる。こういうの1回やってみたかったのだ。しかし実はこの報せを受けた時点では予約の決め手にはなっていなかった。悩みに悩んだ。発売の予定日は迫る(少しだけ伸びてくれて結果的に助かった)。

しかしあるとき続報がくる。これこそふたつめの理由なのだが、前作からも今作からも漏れているが発見時期的に編集作業に間に合わず収録されなかった作品が8頁ほどの冊子の特典として付いてくるというのだ。決定打。オタクたちなら、きっとこの気持ちをわかってくれるだろうと勝手に願うものである。こういうのに弱いのがわれわれの性——SAGA——なのだ……。

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そして2作品を並べてみるとこのような感じ。

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造本からして趣味心をくすぐるし、素晴らしい仕事のあらわれとしか言いようがない。安くはないのだが、これだけのこだわりを感じられると微塵も損をした気分にならないものだ。こうして内容面でも装釘の面でも手の込んだ書籍を発売してくれる会社があるうちは、われわれのような人間(どんな人間だ?)は大丈夫だ。幻戯書房さん、やはり好きだな。たくさん持ってはないけれど、たまにどストライクを出してくれる。そうそう、このようにね。

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昨日も触れた北園克衛『白昼のスカイスクレエパア』もこの版元から出されたもの。自分でも改めて眺めてみると、なんとまあ趣味がわかりやすいことだろう。でも、なにか足りない気がしなくもない。瀧口修造かな? あれも欲しいのだが、残念、しばらくこの手の本を買うのは控えねばならない。その期間もなるべく長いほうがよい。

それでも、逆らうまでは行かなくとも時流に乗らない出版社や、時代の片隅で流行とは異なる文脈に目を向けられる愛書家の人びとを、勝手に応援する人間ではあり続けたいな。

 

そしてうちのイカしたメンバーたちもまた歓迎してくれているようす。よかったね。

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きわめつけ

専門的になにかをやらかしていたころほどではないが、Amaz◯nで本を買うとポイントの貯まること貯まること。たくさん買うとたくさんそのぶん貯まる。そしてたくさん買っていたのでたくさん貯まった。さすがにもうそろそろキリがないからそれはやめようというのが最近の決心。ということで区切りとして、ポイントを使って古書を購入した(まだ余ってるけれど)。きわめつけ、ということになるだろうか。

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詩人北園克衛の評論を集成したもので千頁弱ある。これでも厳密にはほとんど集めきれていないというのだから北園の筆力たるや驚嘆の極みだろう。ちなみに彼の書いた小説についてはこのブログでも取り上げたことがある(書訪迷談(10):そういう読書もある - ネオ・オスナブリュック歳時記)。せっかくなので並べてみた。

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しかしこの期に及んで詩ではなく敢えて評論に手を出したのはどういう了見だろう。といっても実際のところ深い考えはない。ただ私は詩人の評論とか、映画人の書いた文章とか、画家の小説とか、そういうのがなんとなく好きである。良寛さんが書家の書や詩人の詩を嫌ったというようなのではないが、専門性が別の指向性をもって一風変わった感性を輝かせるのが好きである。西脇順三郎はなんでも詩で書いたが、特にああいうのがいい。北園克衛も詩ではないものを見てもすぐさま詩人だとわかる。こういうのがすごくいいのだ。

 

うちのイカれたメンバーたちも歓迎してくれているようす。よかったね。

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ところできわめつけはもう1冊ある予定。出版社に直接注文したもので、発売日を考慮すると4月にかかってしまうかもしれないが、こちらも届いたら紹介する予定だ。

そしてこれ以降、買うより読む、買うより描く、買うより書くを実践していきたいので、こいつまた本を買ってるっぽいなという気配があったら叱ってくださるとありがたい。気配だけでいくら言っていただいても結構。そんな気配を出すくらいに我慢ができていない私が悪いのであって、気配を消失させるまではなにも達成したことにはならないのである。まあ、ちょっとは買うんだけどな(オイ)。

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書訪迷談(16):無念

 

第三の警官 (白水Uブックス/海外小説 永遠の本棚)

第三の警官 (白水Uブックス/海外小説 永遠の本棚)

 

 

すごい読書体験だった。こんな小説が書かれていたことに驚嘆するばかり。私などがいくら挑戦めいたことをしようしたところで寸分の跳躍も為したことにならない、きわめて常識的なものにしかならないのだとわかる(そもそもただなにも考えないで書いているだけだしな)。思い上がりだが、そういう意味では自信になる。私は普通なことをやっている。

どうあれ残念ながら私はこの体験を語るだけの言葉を持たなかった。いままであれやこれやいろいろ好き勝手に書いてきたけれど、今回はもういくら考えても「すごい」のひと言で済まさざるをえない。考えれば考えるほど体験したものから遠ざかる。書を訪れて談りに迷う、ということができなかった。だから本当はいつものシリーズに組みこむのにも値しないのだが、今回はお許し願いたい。

ともかく言えるのはこれだけ。要するに、私はすごい読書をしたのだ。

書訪迷談(15.5):言葉の画廊

 

エーゴン・シーレ 日記と手紙

エーゴン・シーレ 日記と手紙

 

 

昨日の記事(書訪迷談(15):痛ましき肖像 - ネオ・オスナブリュック歳時記)で書きたいことは書きたいように書いてしまったので補足はどこか野暮という気もしたけれど、読みながら付箋を貼ったようなところはむしろ活用できてはいなくて、それはそれで心残りであった。なのでメモ的に、いくつか抜き出しておくことにした。特に深い意味はないが、この本が画家ではない人間の自画像の試みではないかと思ったというのにも理由がないことではないと、察していただければ幸いである。
ただし、たしかに思わずハッとしてウームと唸ってしまうような言葉も多いが、あまりに切実すぎてわれわれのような常人には受け止めきれないきらいもある(それができてしまったらある意味でマズイわけで)。なのでどこかのお嬢様学校の戦車隊長みたく引用する格言としては不向きであろう。エピグラフなどにも向かない。ここにあえて載せなかった、たとえばあくまで文脈において冴える文言も多かったわけで、私としてはやはり直に読んでもらいたいと願うばかりだ。
なおシーレ自身の言葉は引いていない。それらがまとまった邦訳があるから、気になる方はそちらを参照されるとよろしいと思われる。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜以下引用〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

画家の仕事とは、ぼくらをとりまく死者たち、ぼくらという死者たちに生気を吹きこむ作業以外の何物でもない。(p.38)

画家は画廊のために、美術館のために描いているわけではなく、みずからのために制作するのであり、それは生の汚辱のゆえに光彩を放ち、苦痛のゆえに痕跡をとどめる。(p.44)

画家とは、存在するものを本来の状態において見守ることのできない呪われた種族なのだ。(p.49)

知識こそ人間を自由に解放する。芸術家こそ、現実においては充たすことのできない願望を実現する。この意味で、芸術は現実原則と快感原則を和解させうる一つの領域、幻想の領域に属している。(p.56)

芸術家は中性的存在でなければならない。(p.75)

いったい、自己の分身を描かぬ画家がいるのだろうか。(p.97)

クリムトはおよそ考えうる男らしさを具えていた。彼が自画像を描かぬのも、当然ではなかろうか。立派すぎて、絵にならない。(p.111−112)

シーレの線は形容詞も副詞も除き、主語と動詞“私は在る“だけなので、孤絶する。(p.141)

自己愛が姿を借りた他者。ウァリーという名の、シーレ。(p.151)

シーレほど、絵の中で赤裸々に、率直に、自分を語った画家は珍しいし、この点、彼の全作品はあくまでも自己告白である。(p.187)

孤独には二つある。肉体の孤独と魂の孤独が。人は後者で死ぬが、前者では死なない。(p.198)

芸術家の陥る最大の危険は、完成した作品によっておのれを占うことである。(p.212)

デッサンとは[中略]、対象にとどめの一撃(クー・ド・グラース)を、与えることを意味していた。(p.220)

クリムトは技量の人である。シーレは技量以上に体験にもとづく方法論を重視している。方法論は、どのように描くかのテクニックではなく、何を描くかの切実な問いかけであり、自分は何を描かなければならないかの問いかけは、つまるところ、自分はどのように生きているのか、の実存の問いかけに帰着する。‪(p.236)

人生は瞬間的な思い出の集積だ。不連続の連続。瞬間的でない思い出があるのだろうか。瞬間的であるとはイマージュが鮮明であることだ。デッサンは刹那のイマージュである。残像は長く脳裏に刻まれる。デッサンは生の断片である。しかし、優れたデッサンには時間で計りえない生の本質が蔵されている。(p.265)

孤立。孤立こそシーレにふさわしく、彼の望んだ絶対の条件のように思われる。(p.281)

絵画とは虚構以外の何者でもない。絵画のリアリティはこの虚構の中に蔵されている。[中略]現在も多くの絵画鑑賞家が犯す最大の誤解は、絵画のリアリティを現実と混同し、どれだけ真に迫っているかを、評価の基準にする点にある。(p.296)

シーレ自身は彼のナルシスムに照らして、世界には和解のありえぬことを知っていたのだ。(p.304−305)