ガールズ&パンツァー最終章第3話ネタバレ感想

公開初日と2日後の日曜日で2回ほど観てきた。ありきたりの感想くらいしか抱けない凡人に大したことは書けないし、記憶違いの誤りもあるかもしれないし、すでにさんざん言われていることもあるかもしれないし、ツイッターなどを探せばもっと技術や歴史に詳しい方が適切に解説をしていると思われる。この記事で絶対に期待などしてはならない。ネタバレ以上に解釈違いもなかなか怖いところである。私は幻覚を見ているのかもしれない。そのあたりを承知していただける場合のみ下へお進みください。

 

 

 

 

 

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ガルパン劇場版ノベライズ所感

 

ガールズ&パンツァー 劇場版(上) (MF文庫J)

ガールズ&パンツァー 劇場版(上) (MF文庫J)

 
ガールズ&パンツァー 劇場版(下) (MF文庫J)

ガールズ&パンツァー 劇場版(下) (MF文庫J)

 

 

いまさらという感じだけどガルパン劇場版の小説を文庫で読んだ。やはり好きだな。私はTVシリーズも観るより前に劇場版から参入した勢なので思い入れも深い。

もちろん媒体も違えば形式も異なるわけで、あれだけ圧倒的な映像として提示された作品が文章と少々の挿絵で描写されなければならないことによるギャップ、文体の好みの問題、さらにそもそも劇場版を観た人間に向けであるなどの問題はあると言えるかもしれないが、そのへんは大した気にするべきものでもないと思う(別に私は批評家ではないし)。ちょうど1年ほど前の記事で『かくも長き不在』の脚本に関する感想を書いたときと同様(書訪迷談(5):デュラララス!! )、むしろならではの楽しみ方ができるのではないかという立場に私は両足を置いて考えたい。

概観してみるとストーリーは徹底して原作準拠、セリフも基本的にそのままで、一部にキャラクターを掘り下げる程度に少々の追加があるのみなので劇場版の情景は想像しやすい。その一方で全体的に新規シーンや背景説明も多くなっていて新鮮である(明かされた根拠づけなどに納得できるかはともかく)。個人的には、戦車や歴史や作中設定の小ネタなどに関する豊富な注釈が巻末にまとめられていることに驚いた。地の文のほうにも多々挿入されている説明的文章からはみ出さざるをえなかった知識の置き場のようにも見えるが、なかなか参考になる資料である。あくまでガルパンの資料として有用ということであって、これだけに頼らないほうがいいような気もするけれど。

全体を通して、ほんの細かいところでうーんとは思いながらも、あまり解釈違いはなかったように感じられる。そもそも確固たる本編があるのだし、いくら考証担当による執筆にあるにしても無茶なことはできなかったはずである。というかほとんど映画として一定の時間に収めるにあたり開示できなかったり言語化する必要がないと判断されたりしていた既定の設定が、媒体の変化で日の目を見る機会を与えられたにすぎないのではないかと思う。戦車に関する細かい情報などはまさにそういう類のもので、画面では攻撃が効かないとか簡単に貫通したとかいうことが視覚として認識されるだけでも、小説版ではたとえば「この戦車の性能だとあの敵戦車の装甲は何百mくらいまでなら撃ち抜ける」というような情報として頻繁に現れてくる。劇場版が隙なくストレスなく非常にテンポの良い濃密な作品だっただけに、こうした過剰な情報にくどさや抵抗を感じるのも当然といえば当然なのだが、逆に言えば『ガールズ&パンツァー』という作品で説得力あるものとして戦車や戦車戦が描写される際、その説得力を裏付けている特にマニアックな部分のもっとも濃縮し沸騰した部分の湧出先が書籍であったということを表しているというアレなんではないか。まあ知らんけど。少なくとも私は嫌いではない。

ともかく、以下、気になったところを書き出してみる。自分で読んで確かめたいとか、たぶん私の解釈も入るかもしれないのでそういうのが気になりそうな方がおられたら、気をつけるか避けるかしてもよいかもしれない。あと思いついた順なので作中の時系列通りじゃなかったり、若干記憶違いもあるかもしれない。だからどのみち自分で読んだほうがいいかもしれない。

 

・辻廉太さんも中間管理職的に大変な立場でかわいそうに思えてくる。日本戦車道の強化とか、大洗廃校再決定の裏にはいろいろあったのだね。

・エキシビジョンマッチ開催の経緯がかなり丁寧に描写されており、組み合わせの決め方にはツッコミどころもあるが「はえーなるへそ」という感じ。

・島田流本拠は群馬県。知らんかった。

・島田流は門下生はかなり多いらしく、ニンジャ要素から海外人気もある。けど世間ではもっぱら戦車道の宗家として認知されてるのは西住流なので、そこに不満があるらしい。別の部分で優花里がその特徴と島田流が広まりにくい理由をさらっと語っていて流石だと思った。

・黒森峰の飛行船。さすが西住家。別の学校だが旧倉庫というのは私も自分の創作で使っていたネタなので、こういうところでその存在を書いてもらえると大いに勇気づけられて使いやすくなる。

・しほさん、鍛錬のためとはいえエリカを唐突にお泊りに誘う。これが西住流か。

・しほさんと千代さん、仲は険悪じゃないだろうし、試合後のやり取りを見ればなおさらそう思えるわけだけど、もっとチリチリヒリヒリしたなにかを感じないか? 絶対「しぽりん」とか「ちよきち」とか、そういうのの以前に絶対なんか因縁あるだろ君ら。

・大学選抜戦の時点でエリカ車には黒森峰で2番目に腕のいい砲手が乗ってるらしい。一番手がまほ車にいたとしたら、無限軌道杯ではどうなっているのだろう?

・大学選抜にはアズミの高校の同級生もいる。名前も似ている。

・カール自走臼砲の発射想定位置を計算したのはナオミとアッサム。好き。

・アッサムも情報不足でデータに誤りを出してしまうことがある。うっかりこういうことしちゃうからアッサムはダージリンに勝ちたくても勝てないんですね(虚空を見ながら)。そこがええねんな。好き。

・ナオミはかわいい。知ってたけど。好き。

・イギリスの人気人形劇「せんしゃトータス」の説明が無駄に詳しくて笑う。

・自分の戦車だけ生き残ったカチューシャが思わずノンナに呼びかける場面があっていたたまれなくなった。あとレオポンさんとエリカ車と連携するときセリフに追加があるんですけど、ちゃんとスリップストリームの原理を説明してるんですよ。カチューシャらしいかはさておき、さすが隊長格というか。だから「スリップするの?」とか言ってる場合じゃないぞエリカ、頑張れよ。いまや黒森峰の隊長なんだぞ。

・ウサギさんチームがセンチュリオンに撃破された後に澤梓がおこなった警戒通信は、実は撃破後なので誰にも届いていなかった。私が不勉強なだけかもしれんけど、まじでこれは知らなかった。

・試合決着後のアキちゃんのセリフ、「(前略)つまってるね・・・・・・」……そんなにテンション低かったかな……もうちょっとエクスクラメーションマーク付いてもいいような語気だった気がするけど......。

・千代さんも「上」の人たちも、大洗連合で活躍した世代が大学に来ることを楽しみにしている。もう最終章の後でいいから大学編やっちゃえよと思う(最終章とは)。

 

・聖グロ勢がたくさん描写されててハッピー。オレンジペコもアッサムもルクリリもローズヒップもきちんと本編以上にキャラ付けされている(ニルギリが名前さえ出てこなかった点だけは残念だった)。そしてとりわけ驚くべきはルフナにわりと存在感があること。気のせいじゃなければたしかに喋っていた。けどそんなに強くキャラクタライズされているわけではないので、もし自分の作品に出すなら好きに人物造形するのが吉かもしれない。

ローズヒップの「知波単にも撃破出来たなら、私にもやれるはずですわ!」発言にはなにか奥深い趣がある気がする。学内では異端児のローズヒップにも無意識にこういう発言をさせうるなにかがこの学校にあるというか、聖グロの生態の解明につながる。なにが?

・ナオミが撃破して白旗を上げてるパーシングに追い打ちで砲撃を仕掛けたローズヒップダージリンが叱責したらしいのだが、これはなにか奥深い趣が(略)。

・GI6についての記述はアッサムの人物紹介のところのみだったから少々残念だったけど、相変わらず好き勝手できると都合よく考えている。

・聖グロの学園艦には森がある。私は自作で広大な公園とか森とか廃棄された旧戦車倉庫とか(あまつさえ幽霊まで)書いていたので非常に安心した。まあ公式に描写があろうとなかろうと、やるときはとことん勝手にやるというのがわれわれなんですけどね。というかドラマCDでサンダースの学園艦内に大規模な上陸作戦用の施設が出ていた(ような気がする)ことを考えれば、本当になんでもアリだと思う。まずニーダーザクセン大学を卒業した者だけが石を投げなさい。

ダージリンの暗躍ぶりが劇場版本編で描かれていた以上にすごい。自らの思惑を楽しみながら、みほのことをものすごく気にかけて大事に思ってる人格者でもある。「全体把握に優れる」みたいな表現も出てきて、公式的な設定でもダージリンのスペックは相当高い(ノベライズは純公式というより準公式なのかもしれないが)。ちょっと面白い性格してるのでわりとネタキャラ扱いされがちで、それは仕方ない側面もあって私自身楽しんでる節がなくもないけど、ダージリンは根本のところでは優秀な戦車乗りであり学業でも「政治」面でも切れ者であるはずだという私の解釈に沿う方向性で一貫していたのがとても嬉しい。あとね、最終章第1話で桃ちゃんの留年危機を知ったオレンジペコが「ダージリン様『は』留学が決まって良かったですね」と言ったことに対して「ダージリン本当は馬鹿なんじゃないか」みたいなことを邪推する一派が相当数おられたが、マジで数少ない私の解釈違いインシデントですからね。半面、ダージリンが優秀な存在として際立てば際立つほど、私のような優秀じゃない人間には描写しがたい存在となるというジレンマもあります。はい。

・重ねて言うと、ダージリンはマジでみほのこと大好きでめちゃくちゃ買っている。角谷会長に対する「戦車道が変わるかもしれない機会を、本当に目にすることが出来るなんて」って発言からはダージリンが聖グロらしさを遵守する伝統主義者であると同時に改革や先進性も求めている側面が窺われて非常に解釈の一致でした。まさに私の文化でした。「お陰で卒業後の予定が決まりましたわ」ってのも、説明がないから留学のこと話してるのかそれ以外のこと話してるかわからないけど、さらっとデカい発言をしたように思われてならない。みほからお礼を言われても「それはあなたの努力」だと、やはり自信を持つように褒める。しかもみほ率いる大洗に負けてないことをきちんと自覚したうえで「あれは練習試合だから」と公式戦での再戦を望んでいる。別れ際の「次の試合を楽しみにしているわ」って、無限軌道杯の決勝の相手は聖グロ説が囁かれるのもわかる気がしてくる。私は聖グロ贔屓だからそれを望んでるけど、エリカにも頑張ってほしいから複雑な心境ですわ。

・でも西ダジはあるよ。

書訪迷談(17):異世界と云ふは死ぬ処と見付けたり

 

リリス (ちくま文庫)リリス (ちくま文庫)

 
黄金の鍵 (ちくま文庫)

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ファンタステス―成年男女のための妖精物語 (ちくま文庫)

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学生時代にPCゲームにハマったが、もっとも衝撃を受けたのはライアーソフトの『Forest』だった。プレイ中はずっと異界と化した新宿への不思議な旅に連れられている感覚である。それ以上に、いつかこのブログでも書いた気がするけれど、ゲームってこんな表現が可能なんだ、こういう表現もしていいんだということに驚愕し、没入し、なんだか自分の感性に革新が起きたかのようで、幻惑に陥って止まることを知らなかった。私が学生になった時点ですでに歴代の名作として数えられるほどに評価されていたわけだけれど、そういう作品たる所以が身をもって体験されたわけである。いまでもあの街を歩いているとゲーム内の世界と二重写しに見えてくる気持ちになる。

これとは違う意味で衝撃を受けたのが『永遠のアセリア』だった。異世界に召喚された少年が特殊な剣を手に敵と戦う......現代ではそう珍しくないタイプのファンタジーなのだが、なんときっちり言語の壁が用意されていて、主人公はもちろんプレイヤーも向こうの世界で出会った住人がなにを話しているのか最初は理解できないようになっているのである。ゲーム性が高く、ストーリー面でもエグい要素が充実していて目が離せず、これも時代の佳品だった。特に嬉しかったのは、自分の心のなかにまだ残っていた中二心のようなものが再びういういしく生命を咲かせる感覚を得られたことだろう。

現実世界の人間がなんらかの事情で異世界に飛ばされり異次元を回ってなんやかんやという物語の体験遍歴は、アニメ『デジモンアドベンチャー』や『モンスターファーム』、小学生のころの愛読書だった『十二国記』シリーズなどがおそらく私の個人的原点であり、中高生時分はことにCLAMP作品あたりを経つつ、おそらくそういう下地があって『永遠のアセリア』などに辿りついた。意識的にこの種の作品を求めたことはないが、触れたらいつでも楽しめるものである。人間が困惑し、奮闘し、友情をはぐくんだり自ら成長するさまを見ることができるからだ。

 

さて、『リリス』はモダンファンタジーの父であるジョージ・マクドナルド晩年の傑作だが、1895年の時点で異世界に飛んだ青年の冒険が書かれているということがまず面白い。もっと以前に書かれた出世作である『ファンタステス』もそうだし、童話集『黄金の鍵』にも少女と少年の冒険の物語が出てくることを考えると、お得意であったか、少なくとも作者の好みであったのだろう。もちろん冒険といっても現代流の「剣と魔法のファンタジー」ほどわかりやすくはないし、また一部見られる突拍子のない展開や理不尽な状況、想像以上に豊富な哲学的というか思弁的な要素などもあいまって、なかなか難物そうだというのが最初の印象である。が、こういう作風なのだと割り切ってしまえばそれほど気にならない程度だと思われた。

マクドナルドの有名な言に「私は子供のためではなく、子供の心を持った人――5歳だろうと、15歳だろうと、75歳だろうと実年齢は関係ない――のために書くのだ」というものがあるが、驚くべきことに(だからこそかもしれないが)、特に『リリス』と『ファンタステス』には明白なように、彼はかなり容赦ない物語を著し方をしている。主人公はたびたび苦しむし、幾度も危機に遭い、求めるものを得られなかったり、大事なものを失ったりする。そこには恐るべき死の影がはっきり認められる。右も左もわからぬ空間で人間が簡単に生きていけるなどと作者は微塵も思っていない。主人公は死に直面し、それについて真剣に思いを巡らせねばならない。

しかしその一方、作中で死は非常に重要な意味を持っている。ある種、それは到達点ですらあると言える。なぜそう解釈できるのかは本編を読んでいただくほかないが、多分にキリスト教的ではありつつそう単純でもなさそうな、むろん武士道の曲解めいているわけでもないマクドナルドならではの死生観というか人間観、哲学的思索などは読んでいて単純に興味深かった。主人公の性格もそれほど好みではないし(『ファンタステス』の青年はとにかく人の忠告を聞かないので笑えてくる)、成功や栄光の獲得という枠にとどまらない冒険譚なだけに取っつきにくさは否めず、全体としてお説教くささもないわけではないが、ひとつの世界とともに示される不思議な境地は一見も多見も価値がある。

秀逸なファンタジーを読むといつも現実を生きる力が湧いてくる気がしてくるものだが、『リリス』をはじめとしたマクドナルドの諸作品はまさにその表現に適うものであった。それはなにより現実を相対化したりもっと豊かに見れるようにするための眼差しを与えてくれるのだ。私が子供の心を持っているとかこれは私のために書かれた物語だとか思い上がるつもりはないけれど、自分がこうした本に出会えたことは幸せな事実である。そして翻って考えてみれば、異世界だけを見ようとしても優れた幻想感覚は生まれえないということにもなると思う。それを知らしめてくれる作家がこんなに昔からいたのだということを、私は常に心掛けておきたい。

 

昨今、異世界は転生してチートをするための行先にもなっているらしい(大偏見)。あるいはすでに戦いが終わって平和になった世界を舞台にしたり、通例や王道を顛倒させたり、時代の感覚に合わせてパターンもますます多様化してきた感がある。私はその手の流行を怠慢から追うことができておらず、それゆえ評価を下す能も資格もなく、もちろん食わず嫌いをすべきとも思わない。おそらく触れてみれば私も楽しめるものであろうし、人気の背景にも様々な事情があるのだろうと察することはできるし、求める人々が相応多数いるのもわかる。世の中は新しい(少なくともそう感じられる)物語を絶えず求めている。

ただ、別世界に転じて戦うとして、そこで果たして相応のストラグルをすっ飛ばせるか。ここに関して、個人的にはなるべくすっ飛ばさないでほしいと思うものである(もちろん先述したタイプの作品にそれがないとは思わない)。それこそせめて本一冊ぶん、数冊ぶん、ないしシリーズまるまるなど、いくらでもかけていいので解消するか、大団円までとはならなくても物語の文脈に応じた解答が導かれてほしい。そうでなくては、せっかくの異世界なのに驚異の感覚や冒険体験を得られないような気がしてきて、なんとなくもったいない気分になってしまうのだ。まあこれは、そんな世界においても現実と同じように苦悩とその克服を求めてしまう私のワガママ趣向でしかないのだけれど。

9月買うた本 〜あいかわらずなぼく。の場合〜

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別に増税前だからといって駆けこむようなこともなく、内容と量の両面で見れば先月もいつも通りの買い物をしたという感じだった。もともと買うつもりだったもの、買おうと思っていたわけではないがいざ実物を目の当たりにしてよくよく考えてみると欲しいような気がしてきたもの、そのへんさまざまを買い散らかしただけである。その陰で買うつもりだったが買わなかったものもある。そういえば前回記事で「とある作家の全集を買うつもり」などとほざいていたが、あれは自分の誕生月にまわすことにした。いちおうそんなに遠くないのだけど。

それから今年は本をなるべく買わないようにしていたつもりだったので、このブログでも時折そんなことを書いていたかもしれないが、昨今でその心意気はむなしく決壊している。当座の計画としては、もう諦めて年内はもう好きなだけ本を買いあさり、年明けあたりで前々から欲しかった本棚を購入し、それに合わせて読み崩してゆく方向にシフトするというものである。が、たぶんこれもあんまり文面通りには運ばないと思う。逆に、ざっくりとは達成しそうな気もする。よくわからない。とまれ、もうこの時点でお察しである。

ところで記事冒頭に掲げた写真で9月の購入分の本をすべて載せたつもりだったが、前回の記事と同様、書いている途中でまた漏れがあるのに気づいてしまった。相変わらずの自分の抜けっぷりが嫌になってくるが、さいきん買った本のなかでは最大だったのでかえって目に入らなかったのかもしれない。

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そして以下、新品と古書でそれぞれ分けて掲載しておく。おそらくこれといって言及しておくべきものはないように思われる。

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それから9月は同人誌でも素晴らしい買い物をした。贅言を弄することはしたくないので説明は省くが、いずれも高度に秀逸な作品だった。

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10月。あまり心機一転という季節ではないけれど、また読書も創作も頑張りたいと自分のなかで高まりつつあるのを感じている。それこそ読書と創作は私にとっての二大自己肯定行為であるので、いまそういうことをしたいという強い気持ちが久しぶりに湧いてきたという喜ばしさを出発点にして、なにか、どこかで、かたちに残すことができたらいいな、なんて。おそらく世間的に見れば大したことなどはできないに決まってるのだけど、まずは自分のためになることを少しずつ積み重ねてゆきたい。

モームとかいう作家

某所のブッコフに立ち寄ったらサマセット・モームの『カジュアリーナ・トリー』と『コスモポリタンズ』が売っていて、古本はしばらくいいやなどとかましていた口で罪深くもまた買ってしまった(そもそもなんで古本の店に入ってるんですかね……)。しかし動機がまったくないわけでもなく、実はこれでちくま文庫から出ているモームの本が揃うことになるからだった。

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モームだけではなくて見にくいのが恐縮だが、左から3番目の『アシェンデン』から『片隅の人生』までがそれで、ここに加えて別の文庫も3冊ほど。あといくつか持っていたはずだけど探して出すのが面倒なので。新潮文庫のアシェンデンは読んだ覚えがあるからどこかにあるはず。昨日今日あたり持ち歩いて読み進めていた本も実はモームの戯曲であるから、なんだかんだ集めたり読んだりしていることになる。

しかし正直に告白すると、モームはわりと好きな作家には違いないが、彼の作品を読んでそんなに長くはない。数年前にやはりちくま文庫の『昔も今も』というマキァヴェッリが主人公の作品を読んだらあまりに面白すぎてたまげたというのが出会いである。

彼の作品のどこが好きかを述べようとすれば時間が必要になるので今回は詳しい言及を避けるが、きつめの皮肉はあっても高尚まで思い上がることなく、ことさら媚びたような低俗まで堕すこともなく、なにより面白さと読みやすさを両立する取っつきやすい作品が多いし、作者が自分のために我を貫いて書いたような作品でさえなにか読者に切実に響かせるところがある点などは魅力的である。

思えば、専門的というか研究のための義務的なものではない普通の意味での読書、いわば純粋に楽しむための趣味としての読書が気負わずにできるようになったのは、だいたいこの本を読んだあたりの時期からだった気がする。私が比較的幅広く、特に海外文学方面に興味を向けられるようになったのは、少なくともその一部おいてはモームのおかげだったと言えそうだ(あと『デデ・コルクトの書』とか)。

戦後の一時期、本人の来日などもあってか全集が出るほどの人気を誇ったらしいモームだが、それに比べればさすがにすっかり落ち着いてしまった様子でありながらも、近年になって小説や戯曲の新訳ないし初訳が出ているし、古書も安くて容易に手に入る。私のような遅れてきた読者にはまったくありがたい話である。

ところで、このモームとかいう作家はめえぜるさんにとって非常に重要かもしれない。彼の経歴を見ればわかるのだが、この人は諜報機関の情報工作員、つまりスパイだった。有名なグレアム・グリーンイアン・フレミングもそうだったし、あと私の大好きなミュリエル ・スパーク(※1)も諜報機関に従事していた経験がある。なにが言いたいかといえば、彼はMI6にもバリバリ協力していたのだから、GI6こと聖グロリアーナ女学院情報処理学部第6課にもモームという構成員がいてもまったく不思議ではない。ただそれだけのことである。

 

 

(※1)スパーク女子に関しては以前いくつか「どくしょかんそうぶん」みたいのを書いていたので、よければ読んでみてください。

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