書訪迷談(17):異世界と云ふは死ぬ処と見付けたり

 

リリス (ちくま文庫)リリス (ちくま文庫)

 
黄金の鍵 (ちくま文庫)

黄金の鍵 (ちくま文庫)

 
ファンタステス―成年男女のための妖精物語 (ちくま文庫)

ファンタステス―成年男女のための妖精物語 (ちくま文庫)

 

 

学生時代にPCゲームにハマったが、もっとも衝撃を受けたのはライアーソフトの『Forest』だった。プレイ中はずっと異界と化した新宿への不思議な旅に連れられている感覚である。それ以上に、いつかこのブログでも書いた気がするけれど、ゲームってこんな表現が可能なんだ、こういう表現もしていいんだということに驚愕し、没入し、なんだか自分の感性に革新が起きたかのようで、幻惑に陥って止まることを知らなかった。私が学生になった時点ですでに歴代の名作として数えられるほどに評価されていたわけだけれど、そういう作品たる所以が身をもって体験されたわけである。いまでもあの街を歩いているとゲーム内の世界と二重写しに見えてくる気持ちになる。

これとは違う意味で衝撃を受けたのが『永遠のアセリア』だった。異世界に召喚された少年が特殊な剣を手に敵と戦う......現代ではそう珍しくないタイプのファンタジーなのだが、なんときっちり言語の壁が用意されていて、主人公はもちろんプレイヤーも向こうの世界で出会った住人がなにを話しているのか最初は理解できないようになっているのである。ゲーム性が高く、ストーリー面でもエグい要素が充実していて目が離せず、これも時代の佳品だった。特に嬉しかったのは、自分の心のなかにまだ残っていた中二心のようなものが再びういういしく生命を咲かせる感覚を得られたことだろう。

現実世界の人間がなんらかの事情で異世界に飛ばされり異次元を回ってなんやかんやという物語の体験遍歴は、アニメ『デジモンアドベンチャー』や『モンスターファーム』、小学生のころの愛読書だった『十二国記』シリーズなどがおそらく私の個人的原点であり、中高生時分はことにCLAMP作品あたりを経つつ、おそらくそういう下地があって『永遠のアセリア』などに辿りついた。意識的にこの種の作品を求めたことはないが、触れたらいつでも楽しめるものである。人間が困惑し、奮闘し、友情をはぐくんだり自ら成長するさまを見ることができるからだ。

 

さて、『リリス』はモダンファンタジーの父であるジョージ・マクドナルド晩年の傑作だが、1895年の時点で異世界に飛んだ青年の冒険が書かれているということがまず面白い。もっと以前に書かれた出世作である『ファンタステス』もそうだし、童話集『黄金の鍵』にも少女と少年の冒険の物語が出てくることを考えると、お得意であったか、少なくとも作者の好みであったのだろう。もちろん冒険といっても現代流の「剣と魔法のファンタジー」ほどわかりやすくはないし、また一部見られる突拍子のない展開や理不尽な状況、想像以上に豊富な哲学的というか思弁的な要素などもあいまって、なかなか難物そうだというのが最初の印象である。が、こういう作風なのだと割り切ってしまえばそれほど気にならない程度だと思われた。

マクドナルドの有名な言に「私は子供のためではなく、子供の心を持った人――5歳だろうと、15歳だろうと、75歳だろうと実年齢は関係ない――のために書くのだ」というものがあるが、驚くべきことに(だからこそかもしれないが)、特に『リリス』と『ファンタステス』には明白なように、彼はかなり容赦ない物語を著し方をしている。主人公はたびたび苦しむし、幾度も危機に遭い、求めるものを得られなかったり、大事なものを失ったりする。そこには恐るべき死の影がはっきり認められる。右も左もわからぬ空間で人間が簡単に生きていけるなどと作者は微塵も思っていない。主人公は死に直面し、それについて真剣に思いを巡らせねばならない。

しかしその一方、作中で死は非常に重要な意味を持っている。ある種、それは到達点ですらあると言える。なぜそう解釈できるのかは本編を読んでいただくほかないが、多分にキリスト教的ではありつつそう単純でもなさそうな、むろん武士道の曲解めいているわけでもないマクドナルドならではの死生観というか人間観、哲学的思索などは読んでいて単純に興味深かった。主人公の性格もそれほど好みではないし(『ファンタステス』の青年はとにかく人の忠告を聞かないので笑えてくる)、成功や栄光の獲得という枠にとどまらない冒険譚なだけに取っつきにくさは否めず、全体としてお説教くささもないわけではないが、ひとつの世界とともに示される不思議な境地は一見も多見も価値がある。

秀逸なファンタジーを読むといつも現実を生きる力が湧いてくる気がしてくるものだが、『リリス』をはじめとしたマクドナルドの諸作品はまさにその表現に適うものであった。それはなにより現実を相対化したりもっと豊かに見れるようにするための眼差しを与えてくれるのだ。私が子供の心を持っているとかこれは私のために書かれた物語だとか思い上がるつもりはないけれど、自分がこうした本に出会えたことは幸せな事実である。そして翻って考えてみれば、異世界だけを見ようとしても優れた幻想感覚は生まれえないということにもなると思う。それを知らしめてくれる作家がこんなに昔からいたのだということを、私は常に心掛けておきたい。

 

昨今、異世界は転生してチートをするための行先にもなっているらしい(大偏見)。あるいはすでに戦いが終わって平和になった世界を舞台にしたり、通例や王道を顛倒させたり、時代の感覚に合わせてパターンもますます多様化してきた感がある。私はその手の流行を怠慢から追うことができておらず、それゆえ評価を下す能も資格もなく、もちろん食わず嫌いをすべきとも思わない。おそらく触れてみれば私も楽しめるものであろうし、人気の背景にも様々な事情があるのだろうと察することはできるし、求める人々が相応多数いるのもわかる。世の中は新しい(少なくともそう感じられる)物語を絶えず求めている。

ただ、別世界に転じて戦うとして、そこで果たして相応のストラグルをすっ飛ばせるか。ここに関して、個人的にはなるべくすっ飛ばさないでほしいと思うものである(もちろん先述したタイプの作品にそれがないとは思わない)。それこそせめて本一冊ぶん、数冊ぶん、ないしシリーズまるまるなど、いくらでもかけていいので解消するか、大団円までとはならなくても物語の文脈に応じた解答が導かれてほしい。そうでなくては、せっかくの異世界なのに驚異の感覚や冒険体験を得られないような気がしてきて、なんとなくもったいない気分になってしまうのだ。まあこれは、そんな世界においても現実と同じように苦悩とその克服を求めてしまう私のワガママ趣向でしかないのだけれど。