新宿の中村屋で

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やってるの知らなかった…ということでちょっとタイムリー(書訪迷談(6):いいにくはおいしい - ネオ・オスナブリュック歳時記)だし安かったから寄ってきた。中村屋夫妻が自分たちの息子を温情なく落第させた會津八一に「よくぞ思い切ってやってくれた」と感謝した話は有名だったけど、それ以降の縁に関してこのようにまとまった展示を見れたのは良かった。比較的こじんまりとした内容だったけど全体としてエッセンスも詰まっていて油彩画なんて変わり種もあって不足な点はなかったと思う。それにやはり彼の書は味と迫力がある。来週までのようだから機を逃すところであった。危ない危ない。

 

また例によってAmaz◯nを漁っていたら1月にフラン・オブライエン『ドーキー古文書』が白水Uブックスで復刊するとの由!

同レーベルには既に『スウィム・トゥ・バーズにて』と『第三の警官』が入っていて購入済みだったし、これも古本で買おうかと迷っていたところにいい巡り合わせであった。揃ったら続けて読むことにしよう。

そういえば夏にも日夏耿之介『唐山感情集』で同じように迷っていたら間もなく講談社文芸文庫に入ってくれたので、もしかしたら私の念力は出版社に通じているかもしれない。あーあ、どこかキングズリー・エイミスの『ラッキー・ジム』を文庫とかで復刊してくれないかなあ〜(チラッチラッ)

 

ところでいまほど名前を出した日夏耿之介會津八一の友人でもあった。書簡も残っているし、前回のエントリでも書いたように長山靖生が「日本三大不機嫌」と評するあたり、どこか気質的にも似たところがあったように思う(同編『詩人小説精華集』、p.318)。今回の中村屋の展示にも置かれていた学規に関する原稿で「藝ヲ芸ニシテハイケナイ 必ズ藝トイフ活字ヲ用ヰヨ」という八一の直筆があったが、国語審議会で「藝」の略字が「芸」に決まったことに立腹していた日夏の話を彷彿とさせるではないか(井村君江「『唐山感情集』の思い出」、『唐山感情集』所収、p.229)。学藝の人はこだわりに手を抜かない。

日夏耿之介會津八一の思い出を、辰野隆との対談でこのように語っていた。

ーー娑婆で思い出したが、おれは終戦二日前、愛する母校早稲田をやめて、おれの価値を初めて自ら知らされたのだよ。おれは前後二三年いっていた。ある日、教員室でぼくが、諸君、吾輩がこの学校に来るのは一種の慈善行為である、といったら、先生、賛成と手を挙げたのが秋草道人。あとの連中は例の日本人の不可解な笑いをしていた。(『辰野隆随想全集 別巻 天皇陛下大いに笑う』、p.223)

秋草道人(秋艸道人)は八一の号。孤高の人として知られた彼の珍しい気遣い(?)が現れており、周囲との対比もあるが変わり者ふたりのもたれたふうではない友情が窺われる。空襲の罹災という不幸もあり、八一もまた終戦の年の4月に大学を去った。

 

それにしても、日夏と辰野の対談はすこぶる面白い。上述の退職金の少なさを揶揄する文脈のほか、戦後の国語改革や時の政治家、文壇、マルクス主義花柳界など多岐にわたる分野を清々しい調子でバッサリと切る一方で、神西清や木下杢太郎、小泉信三を褒め称える。いよいよ酒がまわり辰野が「わしはネ、(飲む)日本はいいものを持ってると思うんだよ」と新かな使いを批判すれば、日夏も「人間はサムライの義理堅い心を忘れたらおしまいだ」と芥川龍之介との思い出まで馳せる具合。たしかに古風なオジサンふたりの酔いどれ談義でしかないのだが、かたや早稲田や青山学院で教鞭をとった学匠詩人、かたや東大仏文科で多くの後進を育てた碩学、ともに名翻訳家、ときおり学識や教養を覗かせている。単なる酔っぱらいオヤジの戯言などと笑ってはいけない。

これを読んでいる途中、そういえばどこかでこの対談の写真を見たっけなと思い出す。記憶を探りながらいろいろ本を確認してみたのだが、よかった、やはりあった。

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井村君江日夏耿之介の世界』、p.276。向かって左が日夏、右が辰野)

…やっぱり酔っぱらいオヤジにしか見えないな?