書訪迷談(7):恋色ミュリエルスパーク

 

ポートベロー通り―スパーク幻想短編集 (現代教養文庫)

ポートベロー通り―スパーク幻想短編集 (現代教養文庫)

 

 

まったくたまんないよ、こんなね、いいもの読ませられたら。いますごくどきどきしてるし、思い出すだけでにやにやが止まらなくなる。恋、しちゃったかも。

 

まことに気持ち悪い出だしで方々に頭が下がるが、ミュリエル・スパークの短編集がたいへんに素晴らしかったことを気持ち悪く強調したかっただけなので許してほしい。こういう、物語の句点の打ち方が圧倒的に巧い作家は読んでいて羨ましくって仕方がない。実に品のあるいじわるで、黒めのユーモアのなかにもかわいらしさが隠れている。そう簡単なハッピーエンドにはしてやらんぞ、だからといって安易に不幸にしてもやらんぞ、もうちょっとおかしなふうに、もっと面白いようにしてやる。こういう気概を感じるわけだが、悪意という感じではないので読後は清々しい。というかにやにやしてしまう。こんなの読者としては惚れてしまうに決まってる。

あまりふわふわした言葉で喩えてもままならないので、もうひとつ立ちいってみる。スパークの書く幻想物語は起伏に富んだ冒険譚の類ではない。現実的で、一見あくまで地味で(いきなり熾天使が「よっすどうも」みたいな感じで登場したりするが)、地に足のついた感じがあるが多分に動的で、わりあいに場面が飛んだり時間が未来過去へと移ったり、自由で奔放とも言えるかもしれない。なんとなくだが、わかりやすさを第一に考えてはいないような気がした。けど、わからないかというとそうでもない。けっこう伝わるのだ。というか非常に楽しめる。それはこう、意外としっくりくるものだ。

かように漠然とした印象を抱きつつ訳者あとがきまで辿りつく。そこにはスパークの考えなりがいくらか紹介されており、そのおかげで完全な答えではないが、それなりに得心できた。それによると「スパークは、読者によい人だと思われたくて、小説を書くのではない、小説を書く時の楽しさを読者に伝えたくて小説を書くのだ、と言っています」。あ、そうか、スパークにはこうするのがいちばんだったんだ! これが最も楽しめる書き方だったんだ! 自分の楽しさを優先しながらも、それでこれだけ人に伝わるものを豊かに表現できる手腕は見事というほかない(ほんと羨ましい)。

そしてこういう言葉も紹介されている。「現実(リアリズム)の表面にていねいに沈み彫りをすればくっきりと鮮やかな幻想(ファンタジー)が現れる」…うーむ、うべなるかな。これは不可分の関係だろう。物語の流れや雰囲気の創出にも言えることだけど、特に不思議な、それでいてもっともらしい人物の造形には現実における深い人間理解が本来なら必要なのだ。オーガスト・ダーレス『ジョージおじさん』でもそういう趣を感じとった覚えがあるが、むしろ幻想作品にこそリアルを見据える眼力が求められる。考えてみると、登場人物を「ひと癖もふた癖もある」なんておいそれと表現しちゃだめな気もしてくるではないか。彼らはもしかしたらわれわれと直に隣り合い、あるいは自分のうちに存在するのかもしれないのだ。

いずれを見回しても、現実をとことん追求しようとしているスパーク女史と違い、そこから逃げようとするきらいのある私の反省点だなあ。各篇を読み終えるたび、不意に聞こえる気がしたものだ。「でも、こういうものでしょう?」…御意、御意。

 

ミュリエル・スパークの小説はここ5年ほどで復刊やら新訳やら盛況である。だがもっと盛りあがってもいいように思われる。『マンデルバウム・ゲイト』もUブックスとか入るんじゃないかと踏んでいるがどうなるだろう。他には彼女の詩なども気になるし、本格的な分厚い評伝なども期待したいところだ。

個人的な考えを申せば、翻訳は過剰であるくらいがちょうどいいと思っている。翻訳の民は己の言語感覚を外来の文脈と摺り合わせ、(普通は)多大な努力と労力を総動員して言葉を精錬する。この言葉は、翻訳した者との関係だけに終始せず、それを享受する読者との関係において果てるわけでもない。実はこうした言葉は、それ自体が翻訳されたものだとわからなくなり世の中に「しれっと」馴染んでなおその翻訳語としての効用を発揮し、移し換えられた先の言語をじわじわと豊かなものにしている。ちなみにここまで真に迫っておいて申し訳ないが、これは私の単なる妄想でしかない。

いやしかし、T.S.エリオットなども言っていたではないか。ある文化が発展するためには他の文化の存在、それらの相互作用が不可欠であると(これはヨーロッパを語る文脈だったと思うがそれに限った話ではない)。畑は違うがコンラート・ローレンツヴァルター・グロピウスも同様の趣旨のことを書いていたし、和菓子のような日本独自と見られるものでさえ外来の菓子の影響なしには多様性を獲得できなかったであろうという話もある(青木直己『和菓子の歴史』)。

翻訳のような営為に関して私ができることというのは皆無に等しいため、なにを言っても外野からの勝手な要望にしかならない。だからせめて恩恵にあずかったぶんは功労者諸氏へのお布施として惜しまず散らしてゆきたい。そのために必要なのはなにより先立つアレだが、私の場合、それ以上に心の余裕なのだった…(゚∀。)オヒョヒョ