書訪迷談(9):先生はつらいよ

 

ミス・ブロウディの青春 (白水uブックス―海外小説 永遠の本棚)

ミス・ブロウディの青春 (白水uブックス―海外小説 永遠の本棚)

 

 

思い出話。小学生のころはなにかと「自分」がゲームやマンガの世界に行きたくて、脳内では頻繁に訪問していた。その世界で「自分」が活躍する姿を想像するのがたまらなく楽しかった。いろんな世界に「自分」主体で遊びに行っていた記憶がある。こういう妄想がいちばんに捗るのはなんといっても授業中で、集中力がないのはこのころからまったく変わっていなくて苦笑してしまう。もう「自分」があちらへ出向くことはほとんどなくなってしまったが(モブで紛れ込む程度の想定はまあいいだろうくらいの意識はある)、原稿執筆の時期、いいアイデアが浮かぶのはやはり普段事の最中なのでメモ帳ノートは手放せない。

あの脳内旅行が日課だったころの精神というのは現在の私からすると信じられないほど強靭で、没入の度合いも桁違いだった。これは中学で一日中エロいことを考えていたときの自分にも当てはまるが、いまではとても無理な話だ。老いるとちょっとエッチな考えに及ぶだけで恥ずかしくなってしまう。まあ冗談はいいとして、もはやあとは失われるだけの若さーーそれはいまやもう噛み締めることしかできない。

 

ミュリエル・スパーク『ミス・ブロウディの青春』で、まず私に突きつけられたのはそういう若さのほとばしる力だった。というのも、少女が読んでいる本の登場人物とのアツい交流を妄想するだとか、性的な知識と関心を持った途端それがあらゆることに面白おかしく結びついてしまうようになるだとか、ああいう心情をスパーク節とも形容すべきあの容赦のなさでまざまざと見せつけられたことなどによる。あれほどの老人小説をものしておきながら、翻ってみなぎる若さを主題に据えて書ききってしまうあたり、この作者は絶対タダモノではないと再確認するばかりだ。しかしひたむきな青春の謳歌、その讃歌にはならないところがやはり紛れもなくスパーク作品である。ただで済まそうなどという気はさらさらないということか。

これは『死を忘れるな』の解説でも言及されていたが、スパークはかなり繰り返しを多用し、時間を自由に移動する。たとえば「のちに◯◯となる誰々は」とか「彼女はまだ○○ではなかったので」といった表現がしつこいくらいに何回も出てくる。だがいくらも無駄に感じられず、むしろだんだんお約束のように感じられて思わず吹き出してしまう。そして現在を語っていた直後の文や段落でいきなり未来の描写に飛ぶことも珍しくない。その人物の最期まで開陳されることもあった。なのに、いずれの手法も(たいへん要領の悪い私が躓くことないまま楽しんで読めるほど!)実に効果的に使用されている。もちろん私にも読者なる立場の了解があるとはいえ、まだるっこしさはいくらも感ずることなく、展開的にネタバレを食らった感覚が微塵も湧かない。特に繰り返される「最良の時」というフレーズだって、最後の最後に使われたタイミングで私の最も大きな感動を喚び起こし、私の好きな台詞ベスト3に入ってもおかしくないくらいジーンと心に沁みて、不思議な余韻を残してくれた。本書の表現でどこか一部分でも欠けるようなことがあれば、書物としての完成度はもとより、私の読書体験もこれほど充足しなかったであろう。

ブロウディ先生への評価は、ちょっと難しい。ちょうどこの小説をどのように評するかが困難であるように。ただ異なるのは、この小説への賛辞自体は惜しまないがブロウディ先生に共感や愛着をまず向ける気がない点であろう。彼女はたしかに優れた教師かもしれないが、自らの偏向と偏見には盲目だし、わがままで協調性も客観性もなく、なによりファシストの支持者でありそのものである。私からすればとてもじゃないが勘弁してくれというタイプの人なのだ。ただ「現在の」私にはこれ以上に悪く言うことはできない。幸いにして、トラウマや悪影響になるような教師に習った経験はなかったが、もし少年時代にこういう先生と出会っていたら、熱心な信者になってしまっていたのではないか。そう思わせる、魅力的ではないのに強力に関心を惹きつけてくる魔がある。「最良の時」にある彼女は輝いていて、そこが怖い。

私の先生がよく、もし自分がナチの時代に生まれていたら時代の風潮に流されていたと思う、と語っていた。これは非常にバランス感覚に優れた、イデオロギー色のないドイツ史の専門家の言葉なのである(立場的にはややリベだろう)。あとの時代から過去を間違っていたものとして断じるのは簡単だが、果たしてその現代的特権意識はどこまで有効なのか。同じように読者という安全な立場から登場人物を嫌悪感や反発でもって撥ねつけることは、どうだろう。その人の正義心の証明にはなろうが、私にはあまり誠実には思われない。案外、違った外見の同じ素材のものを纏っていたりするかもしれない。だから私はブロウディ先生のことを単に悪者として切り捨てることができない。

「考えさせる」という表現はいまや半ば定型句として手垢や唾液にまみれた言葉になった感もあるが、正味190頁に満たない『ミス・ブロウディの青春』という小説は、本当の意味でこれに適う作品になっている。ブロウディ先生への評価が難しいと言ったのは、それが理想の教師とするか最高の反面教師とするかなどの善悪の判断以前に、そういう動機があった。それほど鮮烈なキャラクターなのだ。もちろん人によっては深いところからくる嫌悪感を示してもおかしくないほどブラックな面もあるけれど、それを承知したうえでも薦めたい。多くの人に読んでほしい本である。

私もミュリエル・スパークは再読も含めてどんどん読むつもりだ。

 

ところで本作は映画化されていて(邦題『ミス・ブロディの青春』)、私も実はもうずっと前にこれを先に観ていた。タイトルロールを演じてアカデミー主演女優賞を獲ったマギー・スミスの存在感とハマリ役っぷりは圧巻で、脚本的事情による原作との多数の相違や改変がありながら、彼女の姿で想像しながら読んでもまったく違和感がなかった。他の配役も見事に適していて、なによりもうひとりの主役と言うべきサンディをはじめとした少女たち、そういう描写はされていないのに本当に義歯を新しくしていそうなミス・マッケイ、マジでgauntなミス・ゴーント、ブロウディ先生と親しむ男性陣など、全体として隙なく雰囲気に満ちている。

それから美的感覚に訴えてくる。古都エディンバラの風景はよく映えるのだが、そんな土地にあるお堅い学校、そこに在学する奔放な少女たちの描写がきわめて優れていて、いや優れているなんてものじゃなく、もはや純然たるフェティッシュである。冒頭で制服姿の少女たちが登校するシーンは感覚に深く突き刺さってきて(特に帽子がいい...)、私は映画が終わるまでどこにも逃げることができなかった。原作小説と映画どちらも審美的情緒をふるわせるものがあり、それぞれ共通する点でもしない点でも良さを持っているから、お好みで選んでよし。

 

さて、これで手元にあるミュリエル・スパーク作品をひと通り読んだ。それでふと思ったのは、この作家から影響を受けることができたらどれほど幸福なことだろう、ということだ。私などには元来「尊敬する人と同じことはしようとするな」という意識があったため、珍しい感想である。それは自分には真似できないようなすごい人のことばかり尊敬してしまうことに由来するのだが、だからといって決してスパークなら真似できると言いたいのではない。断じてそんなことは言えない。言ってはいけない。そこはやはり無理だと思う。作品から著者の人格を推し量ることの誤認は私も認めるところだが、このような作品を書ける態度になにより羨望の眼差しを向けたいのだ。それが読んでいて学べるものではないにしても羨ましさは消えない。

しかし影響、いったいなんぞや。たとえば西脇順三郎の、泉鏡花の、ジェイムズ・ジョイスの。彼らの影響を受けるなんてちょっと憧れてしまうが、どうなのだろう。その言葉の意味の範囲をどう設定するかにもよるだろうけれど、本当にどうなるのだろう? どうなれば影響を受けたと言えるのだろう? 読んでいれば影響を受けることができるのだろうか。読んで創作して、創作して読んで、これを繰り返していれば影響を受けることができるのだろうか。実際あんまり難しく考える必要などないのだろうけれど、よくわからない。

なんとなくわかるのは、私に関して言えば、誰々からこういう影響を受けましたとかあまり迂闊に口走らないほうがいいということだけであろうか。影響を受けたと言えてしまうことの容易さに比べて影響を受けること自体の相当な難しさを見るとどこかアンバランスだ。だから私は若干及び腰になって、今日も思うのである。ああ、あの人の影響を受けることができたら幸せであろうなあ…………あれ、でも、本当に現状これで満足かなあ…わからない。私は疑問を浮かべるのをやめて、とりあえずそのとき読みたいものを読み続けるしかない。