書訪迷談(10):そういう読書もある

 

白昼のスカイスクレエパア

白昼のスカイスクレエパア

 

 

むかし友人の下宿で飲んでいたとき、読んでいる本の話になったので私は西脇順三郎を薦めた。当然のように彼は西脇を知らなかったので、私の地元の隣町出身の詩人で、ノーベル文学賞の候補にも推薦されたやべーやつなんだとか簡単な説明をした。しかし具体的な内容に移るまえに彼は言った。「詩はわからないんだよなあ」。私はそれ以上もう踏み込まず、彼が持ち出した本について話題を深める方向に徹した。

この反応はもっともだった。私とてそれらしきことを言っておきながら当時は西脇の詩に初めて触れてからまだ数年かそこらで、詩とはこういうものであるということも知らず、また考えずにいたものだから話を深められる知識も覚悟もなかった。人の納得のいくようにできるかどうかという基準で考えれば、いまなお他人向けの説明はできかねる。

ただし現時点で自分なりに落としどころとしているのは、その西脇がT.S.エリオットを引いて述べたように「詩とは新しい経験の創出である」ということと、やはり西脇の言うように「形式を問わず、自分の審美的情緒をふるわせるものを詩と呼びたい」ということである。定義になっていないと思われそうだが、それは定義するというおこない自体が詩的でないことによるのかもしれない。それゆえ結局なんとでも言えそうだが、いま個人的には「詩はわからなくてもいい」と考えている。むろん私に理解する力がないからそうなっている節も多分にあるのだけど......いや、むしろそれだけか?

 

北園克衛という名前には西脇順三郎の著作や関連本を読んでいればだいたいどこかで遭遇する。なにやら詩人らしいということもわかる。調べてWikiなんか見てみると、実に多彩な才能の持ち主であり実践者であったことが見てとれるだろう。いろいろやりすぎたせいか、全詩集や全評論集が出されているのにそれでさえ全体の仕事のほんの一部しか網羅できていないという話もどこかで読んだ記憶もあるのだが、ざっと概観してみてもたしかに多作の印象だ(彼に限らず、戦前の同人文化華やかなりしころの人々が燃えたぎらせていた創作への熱意というものは現代のわれわれから見てもすごい)。

それだけいろいろな方面から表現を追求しているなか小説もしれっと書いていたようで、このたびおよそ2ヶ月ぶりに再読した『白昼のスカイスクレエパア』は北園の手になる39の短編を収めた好個の集成である。おそらくこれだって一部にすぎないのだろうな。なんやかんやと私から御託を並べるまえに、まずは帯に載る文と著者紹介を引用してみる。

戦前の前衛詩を牽引したモダニズム詩人にして、建築・デザイン・写真に精通したグラフィックの先駆者が、1930年代に試みた〈エスプリ ヌウボオ〉の実験。ーーーー書籍未収録35の短編。

北園克衛/ きたぞのかつえ(1902ー78年)三重県生。1920年代(大正末期)から詩作を始める。西脇順三郎瀧口修造らと並び、西欧の前衛運動と呼応した日本のモダニズム詩・前衛詩を牽引した。主な詩集に『白のアルバム』『黒い火』『円錐詩集』『ガラスの口髭』など。バウハウスの影響を強く受けたスタイリッシュな作風で、戦後はイラスト・デザインにおいても活躍、ハヤカワ・ミステリ文庫など手がけた装幀は膨大な数にのぼる。昭和10年創刊の主宰誌『VOU』は、詩はもとより写真、美術、建築、音楽、映像などをフィーチャーする総合芸術誌として今なお海外からの注目も高い。

さて、本書における本文以外の説明的内容となるとほぼこれだけだ。もちろん目次のほか各短編の初出情報、また難語や外国語に関する注など最低限の情報も付されているが、編者解説やあとがきのようなものは一切が省かれ、刊行の経緯や書名などに関してもまったく触れられていない。編集協力者のツイッターを覗いてみても立ちいった細かい点への言及はなされていなかった。これをどう受け取るべきか?

少なくとも私としてはなんの問題もないことだ。別に学問的ないし方法論的に読むわけでもなし(私にそんなことができる頭はない)、これで十分という気がする。「北園克衛はこの時代こういうことがあって、のちのちこうなることを考えると~」のような文脈で考えることもたしかに数多ある楽しみのひとつなのだが、本書を読んでいると、そうした余計な(と言っては本当はいけないのだが)情報を削ぎ落とそうとする編集態度というのは、むしろ読者がより純化した読書を体験できるよう配慮した行為であるとすら思えてくる。あまり過度な推測でものを言うのは憚れるところはあるが私は都合よく考えてしまう人間なので、出版側の非常に自己抑制された、俗気をなるべく排そうとする姿勢をここに見ている。まかり間違っても手抜きであるとは思われない。

それもまったく根拠のないことではなくて、まあ多分にこじつけではあるけれど、本書『白昼のスカイスクレエパア』の性質を考えたら(たとえ結果的なものであれ)良好に作用する工夫になっているのである。大正モダンの香気を存分に残した、全体を通してそよいでいるいわゆる「ハイブロウ」な作風は、私のように俗世から逃れたくても逃れられない「ロウブロウ」人間からするとこれ以上ないくらい心地のよい安息場所となってくれる。クリイム・ソオダとか、銀座とか軽井沢とか、香水や煙草の銘柄とか、全体とした時代なりの言葉遣いとか、時折に説明なく原語のまま載せられた外国語の詩とか、いちいちお高くあろうとするあたりには読みながらニヤケずにはいられない。通底した要素を持ちながらもジャンルの幅はわりあいに広く、随所に実験的試行は見受けられるけれども意外としっかり小説をしているため、これ1冊でなかなか多方向に楽しめる。装釘もこだわりを感じられる綺麗な仕上がりで、ちょっとだけ特別な読書ができそうな雰囲気の創出を助けてくれている。

だから(に全然なっていないんだけども)、北園克衛という詩人が書いた小説を現代的な文脈や学術的な意義から離れて比較的純粋に読めることには大いなる価値が付随していると言わねばならない。もちろんいくら頑張っても脳内で関連する思考や知識のうごめきは排除できないから厳密に純粋な読書体験っていうのはたぶん不可能なんだけど、これはあくまで具体的な現況から生じる比較的な話であって、「より」で達成できればいいことなのである。歴史学における客観性と、なんか似ているね(ちょっとなに言ってるかわかんない)。世迷言はともかく重要なのは、そういう気分を充足させてくれる体験であって、またこの本がそういう気分の充足を大いに実感させてくれたことである。

 

あまり本の内容に触れていないので紹介としても失格だし絶対に本書の魅力を露ほども伝えられている気もしないのだけど、まずもって読み物としてのクオリティも相応に備えているのでオススメしたい。それからぜひ、なにかしらの詩を読んでもらえればなによりと思う。西脇順三郎はなにを書いても詩になった人だが、北園克衛は詩を見なくても詩人だとわかる。いずれにせよ、結局両者とも根底からきわめて詩人であったということだ(上で引いた西脇の定義から考えてもね)。そういうことで特にこのふたりの詩を読むとしみじみ思う。詩はわかるわからないの次元から離れ、まず体験するものとして楽しんでよいと。そして感じる。こういう読書もあるのだと。

【朗報】泉鏡花フヱステヰバル、開催可能 ほか雑文

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ここ数ヶ月で見かけるたびにブック◯フへ入り、ち◯ま文庫の棚を探してはちくちく買うなどしていた泉鏡花集成。結局10巻は手に入っていないが当該巻の収録作品は山海評判記と薄紅梅なので別の本でカバーし、集成未収作や随筆なども文庫で出ているものもあったりするので拾い、先日ついに『由縁の女』を揃えてほぼ完成と相成った。欠巻の種村季弘の解説が読めないのだけが残念だがまだ微傷だろう。もちろん全集などには及ぶべくもなく、文庫で網羅できる限界に挑戦したわけでさえないのだが、それでもこれだけまとまって鏡花を賞味できるところまで持ってこれたのは大きい。

この集成はいずれもちゃんとした古本屋さんで買おうとすると意外とけっこうな値段になってしまう。とはいえ途中から半ばヤケクソになりながらブッ◯オフ巡りだけで揃えることにこだわったあたり自分でもアホなのではないかと思うのだが、まさか本当に、しかも年内に揃うとも思っていなかったので驚いている。まあ、ひとまず落ち着いたとからよしとしよう。これだけで1年は楽しめそうなものだが年明けあたりからじわじわと読み崩してゆこうかという心算である。用法用量を守らなければ。

ところで、泉鏡花と私との出会いは中学生の時分だった。夏ごろBS2の劇場版アニメ特集で放送された『サクラ大戦 活動写真』を観た私は、この作品のことをよく知らないのに非常に興奮しながら楽しんだ。(よくこれはファン向けの映画と言われるが、ではなぜ私が楽しめたのか? おそらくこれは謙遜したファンの言い分なのでは?)いまでもBlu-rayをたまに観直すこともある本作だが、劇中劇として上演されるのが泉鏡花の『海神別荘』で、当時から少し気になっていた。ただし作品を読んだのは大学に入ってからだ。中学から高校にかけて私は陸上競技に熱中する脳筋少年だったから(いまでも思考回路はそんな感じである)、その期間そもそも読めたと言える活字の本も指折りほどしかなかったかもしれない。だからといって読んだら読んだでハマることもなくまたしばらく生きてきたのだが、近来にして熱意のようなものが不意に湧くというのも不思議な話である。人生、どんな辿り方をするかまったく読めない。

 

※名物・村上牛の豚串はなかった

今日は表参道のネスパスに行ってきた。ここは新潟の物産館で、地元のものがいろいろ売っていて楽しい。今回の目的といえばきのこのお汁とルレクチェで、人にオススメしたら自分も行きたくなってしまったので思わず訪れたという次第である。もはやきのこしか入っていないというお汁が想像以上のボリュームで、もうこれだけでお腹いっぱいになりかけたほど。けれどもそのあとのフルーツも別腹のように美味しくいただいてしまった。目当てのルレクチェはもちろん美味しかったけど、日本梨のシャクシャク感も予想外のアクセントになっていて周囲からはご満悦に見えたことだろう。食べるだけで健康になった気がするのもおトクである(気のせいだぞ)。

ネスパスにはかなり久しぶりに足を運んだので品揃えなどで残っている印象はなかったが、ふらふら眺めてみるだけでかなり楽しものと気づいた。地元の隣町のパン屋で売ってる羊羹とか、珍味とか、かんずりは元のやつだけでなく生のやつとか変わり種とか、日本酒にしてもこっちの居酒屋で出回らないようなものとか、いろいろ売っていてけっこう面白い。八海山のところが造ってるビール、むかしは泉ビールみたいな名前だと思ったけど変わってたぽい?(同じかはわからないが泉ビールはめちゃくちゃ美味い)

あと玉川酒造の越後武士ナポレオンがここで買えることにもたまげた。このお酒は法律上リキュールに分類せざるをえないが作り方はそのまんま日本酒という面白い飲み物で、なかなか味わい深くてときめく。どうしてこれを知っているかというと、これを出してくれるお店が下北沢にあり私もたまに飲みに行くからなのだが、実はそのお店のご主人の実家が玉川酒造なのである(「かざまん家」で検索してね)。新潟の食材と料理にこだわっていて私の故郷とも味覚の圏域が近い、こっちでは重宝できる数少ない居酒屋だ。お酒など言うまでもなく豊富で、やはり私の地元のいちばん好きなお酒を置いていることもあるし、別に詳しくはないとはいえ新潟出身の自分でも聞いたこともない銘柄と出会うこともある。ときおり情報を確認するときのこを入荷したとかルレクチェが届いたとか見かけて「行きてー!」と気にするたびに行けないまま逃していたので、そういう意味でも今日ネスパスに行けたのはよかった。が、書いててまたお酒のほうも飲みに行きたくなってきてしまうあたりダメ人間だわね。

 

※人間、切羽詰まると…

本を買う。「なんの記念日でもないのに。」買ってしまうのな。「本を買った日がその本を買った記念日だ!」反省は見られない。永遠に。ただまあ来年は買うことより読むこと、それから書くことも優先してゆきたいでありんすな。

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書訪迷談(9):先生はつらいよ

 

ミス・ブロウディの青春 (白水uブックス―海外小説 永遠の本棚)

ミス・ブロウディの青春 (白水uブックス―海外小説 永遠の本棚)

 

 

思い出話。小学生のころはなにかと「自分」がゲームやマンガの世界に行きたくて、脳内では頻繁に訪問していた。その世界で「自分」が活躍する姿を想像するのがたまらなく楽しかった。いろんな世界に「自分」主体で遊びに行っていた記憶がある。こういう妄想がいちばんに捗るのはなんといっても授業中で、集中力がないのはこのころからまったく変わっていなくて苦笑してしまう。もう「自分」があちらへ出向くことはほとんどなくなってしまったが(モブで紛れ込む程度の想定はまあいいだろうくらいの意識はある)、原稿執筆の時期、いいアイデアが浮かぶのはやはり普段事の最中なのでメモ帳ノートは手放せない。

あの脳内旅行が日課だったころの精神というのは現在の私からすると信じられないほど強靭で、没入の度合いも桁違いだった。これは中学で一日中エロいことを考えていたときの自分にも当てはまるが、いまではとても無理な話だ。老いるとちょっとエッチな考えに及ぶだけで恥ずかしくなってしまう。まあ冗談はいいとして、もはやあとは失われるだけの若さーーそれはいまやもう噛み締めることしかできない。

 

ミュリエル・スパーク『ミス・ブロウディの青春』で、まず私に突きつけられたのはそういう若さのほとばしる力だった。というのも、少女が読んでいる本の登場人物とのアツい交流を妄想するだとか、性的な知識と関心を持った途端それがあらゆることに面白おかしく結びついてしまうようになるだとか、ああいう心情をスパーク節とも形容すべきあの容赦のなさでまざまざと見せつけられたことなどによる。あれほどの老人小説をものしておきながら、翻ってみなぎる若さを主題に据えて書ききってしまうあたり、この作者は絶対タダモノではないと再確認するばかりだ。しかしひたむきな青春の謳歌、その讃歌にはならないところがやはり紛れもなくスパーク作品である。ただで済まそうなどという気はさらさらないということか。

これは『死を忘れるな』の解説でも言及されていたが、スパークはかなり繰り返しを多用し、時間を自由に移動する。たとえば「のちに◯◯となる誰々は」とか「彼女はまだ○○ではなかったので」といった表現がしつこいくらいに何回も出てくる。だがいくらも無駄に感じられず、むしろだんだんお約束のように感じられて思わず吹き出してしまう。そして現在を語っていた直後の文や段落でいきなり未来の描写に飛ぶことも珍しくない。その人物の最期まで開陳されることもあった。なのに、いずれの手法も(たいへん要領の悪い私が躓くことないまま楽しんで読めるほど!)実に効果的に使用されている。もちろん私にも読者なる立場の了解があるとはいえ、まだるっこしさはいくらも感ずることなく、展開的にネタバレを食らった感覚が微塵も湧かない。特に繰り返される「最良の時」というフレーズだって、最後の最後に使われたタイミングで私の最も大きな感動を喚び起こし、私の好きな台詞ベスト3に入ってもおかしくないくらいジーンと心に沁みて、不思議な余韻を残してくれた。本書の表現でどこか一部分でも欠けるようなことがあれば、書物としての完成度はもとより、私の読書体験もこれほど充足しなかったであろう。

ブロウディ先生への評価は、ちょっと難しい。ちょうどこの小説をどのように評するかが困難であるように。ただ異なるのは、この小説への賛辞自体は惜しまないがブロウディ先生に共感や愛着をまず向ける気がない点であろう。彼女はたしかに優れた教師かもしれないが、自らの偏向と偏見には盲目だし、わがままで協調性も客観性もなく、なによりファシストの支持者でありそのものである。私からすればとてもじゃないが勘弁してくれというタイプの人なのだ。ただ「現在の」私にはこれ以上に悪く言うことはできない。幸いにして、トラウマや悪影響になるような教師に習った経験はなかったが、もし少年時代にこういう先生と出会っていたら、熱心な信者になってしまっていたのではないか。そう思わせる、魅力的ではないのに強力に関心を惹きつけてくる魔がある。「最良の時」にある彼女は輝いていて、そこが怖い。

私の先生がよく、もし自分がナチの時代に生まれていたら時代の風潮に流されていたと思う、と語っていた。これは非常にバランス感覚に優れた、イデオロギー色のないドイツ史の専門家の言葉なのである(立場的にはややリベだろう)。あとの時代から過去を間違っていたものとして断じるのは簡単だが、果たしてその現代的特権意識はどこまで有効なのか。同じように読者という安全な立場から登場人物を嫌悪感や反発でもって撥ねつけることは、どうだろう。その人の正義心の証明にはなろうが、私にはあまり誠実には思われない。案外、違った外見の同じ素材のものを纏っていたりするかもしれない。だから私はブロウディ先生のことを単に悪者として切り捨てることができない。

「考えさせる」という表現はいまや半ば定型句として手垢や唾液にまみれた言葉になった感もあるが、正味190頁に満たない『ミス・ブロウディの青春』という小説は、本当の意味でこれに適う作品になっている。ブロウディ先生への評価が難しいと言ったのは、それが理想の教師とするか最高の反面教師とするかなどの善悪の判断以前に、そういう動機があった。それほど鮮烈なキャラクターなのだ。もちろん人によっては深いところからくる嫌悪感を示してもおかしくないほどブラックな面もあるけれど、それを承知したうえでも薦めたい。多くの人に読んでほしい本である。

私もミュリエル・スパークは再読も含めてどんどん読むつもりだ。

 

ところで本作は映画化されていて(邦題『ミス・ブロディの青春』)、私も実はもうずっと前にこれを先に観ていた。タイトルロールを演じてアカデミー主演女優賞を獲ったマギー・スミスの存在感とハマリ役っぷりは圧巻で、脚本的事情による原作との多数の相違や改変がありながら、彼女の姿で想像しながら読んでもまったく違和感がなかった。他の配役も見事に適していて、なによりもうひとりの主役と言うべきサンディをはじめとした少女たち、そういう描写はされていないのに本当に義歯を新しくしていそうなミス・マッケイ、マジでgauntなミス・ゴーント、ブロウディ先生と親しむ男性陣など、全体として隙なく雰囲気に満ちている。

それから美的感覚に訴えてくる。古都エディンバラの風景はよく映えるのだが、そんな土地にあるお堅い学校、そこに在学する奔放な少女たちの描写がきわめて優れていて、いや優れているなんてものじゃなく、もはや純然たるフェティッシュである。冒頭で制服姿の少女たちが登校するシーンは感覚に深く突き刺さってきて(特に帽子がいい...)、私は映画が終わるまでどこにも逃げることができなかった。原作小説と映画どちらも審美的情緒をふるわせるものがあり、それぞれ共通する点でもしない点でも良さを持っているから、お好みで選んでよし。

 

さて、これで手元にあるミュリエル・スパーク作品をひと通り読んだ。それでふと思ったのは、この作家から影響を受けることができたらどれほど幸福なことだろう、ということだ。私などには元来「尊敬する人と同じことはしようとするな」という意識があったため、珍しい感想である。それは自分には真似できないようなすごい人のことばかり尊敬してしまうことに由来するのだが、だからといって決してスパークなら真似できると言いたいのではない。断じてそんなことは言えない。言ってはいけない。そこはやはり無理だと思う。作品から著者の人格を推し量ることの誤認は私も認めるところだが、このような作品を書ける態度になにより羨望の眼差しを向けたいのだ。それが読んでいて学べるものではないにしても羨ましさは消えない。

しかし影響、いったいなんぞや。たとえば西脇順三郎の、泉鏡花の、ジェイムズ・ジョイスの。彼らの影響を受けるなんてちょっと憧れてしまうが、どうなのだろう。その言葉の意味の範囲をどう設定するかにもよるだろうけれど、本当にどうなるのだろう? どうなれば影響を受けたと言えるのだろう? 読んでいれば影響を受けることができるのだろうか。読んで創作して、創作して読んで、これを繰り返していれば影響を受けることができるのだろうか。実際あんまり難しく考える必要などないのだろうけれど、よくわからない。

なんとなくわかるのは、私に関して言えば、誰々からこういう影響を受けましたとかあまり迂闊に口走らないほうがいいということだけであろうか。影響を受けたと言えてしまうことの容易さに比べて影響を受けること自体の相当な難しさを見るとどこかアンバランスだ。だから私は若干及び腰になって、今日も思うのである。ああ、あの人の影響を受けることができたら幸せであろうなあ…………あれ、でも、本当に現状これで満足かなあ…わからない。私は疑問を浮かべるのをやめて、とりあえずそのとき読みたいものを読み続けるしかない。

書訪迷談(8):だからよ、忘れるんじゃねぇぞ…

 

死を忘れるな (白水Uブックス)

死を忘れるな (白水Uブックス)

 

 

引き続きスパークでスパーキングなデイズを。なにせとても楽しい。彼女の魅力は訳者が変わって損なわれるどころかもっと強く惹起されてくる。古典的な名曲をタイプの違う指揮者や楽団の演奏で聴くようなものだろう。ちょっとやそっとのこと(訳者が異なることが!)でぶれてぼやけるような本質ではないということか。

ミュリエル・スパーク『死を忘れるな』には、とにかく老人ばかりが出てくる。加齢で身体が痛んだり病んだり耄碌したり意外と健康であったりするにせよ、みなよく動き、そうでなければよく喋り、あるいはよく考える。年齢はおよそ70代以上で立場も性格も多種多様、それぞれがなにかしら悩みを抱えたり、楽しんだり、そして人によってはあっさり死ぬ。これに関しスパークは一切容赦しない。おじいさんおばあさんにいったいなんの怨みが、と思われるほどに。例によって本当に楽しみながら書いていたのかもしれないが果たして…。

ところで、めえぜるさんは要領がたいへんに悪い。本作でも実に賑やかな人間模様は慣れるまでに多少の苦労があった。だが予感もしていたのである、これは絶対に面白いアレやん、と。自分にしては比較的早く順応し没入できたので、こうなればもうこちらのものである。

「死ぬ運命を忘れるな」という本作の主題は言うまでもなく登場人物に向けられているものだが、読者にとってもどこか示唆的、いやそのまま直言と受け取れるかもしれない。個人的な話で脱線を図り恐縮だが、今年2月に祖母が亡くなり、このとき私は初めて直接の家族の死に直面することとなった。101まで生きたという高祖母の死から30年以上わが家では不幸がなく、縁戚や親しい知人の葬儀には行ったことがあっても、本当の意味で私に身近な人の死は初めてだった。そして、私にとっても死が身近となった。はっきり具体的な現象として面前し、その想念が意識に宿った。死が身近になるという表現は、必ずしも死期が迫るという意味に限られない。死を考えることができるようになると、むしろ生命力が刺激されてくる気もする。

牽強付会ぎみに話を戻すと、スパークの『死を忘れるな』という本はどこかそういう向きの資質を備えていたようだ。ある日、突然電話がかかってくる。何回もかかってくる。「死ぬ運命を忘れるな」と…こう言われた者はどのような反応をするだろう。慌てたり、ひどく狼狽して悩んだり、具体的には遺言状を書き換えたり、誰か知り合いを疑ったり、他方でそれについてはもうずっと考えてきたと返答する者もいたり、なかったことにしたりと一様にない。それぞれ大なり小なり異なるにせよ、老い先が短い人々が死を意識して行動すると、ならではの問題が次々と起こる。なんでもないと思われたことも死と関連する。すると尽きる瞬間のろうそくのように(瞬間というほどの域でもないが)現世にぶわっと「生」の証が現れてくるのである。それは、たとえ何者かに焚きつけられたものであるにしても、間違いなく「死」を思うことによって顕現したのだ。40かそこらでこの小説を書いたスパークが見据えていた老境の世界は、既にあまりにも灼然たるものになっている…。

「七十を越すというのは戦争に行くことですわ。仲間はみんなもう死んだか死にかけているか、あたしたちはその死んだひとびと、死んでゆくひとびとのなかで生き残っていて。まるで戦場みたいに。」

老人問題を理解するにはいろんな人と友達になったり、スパイを使ったり同盟を結んだりしなければならぬ。

訳者である永川玲二の「ミュリエル・スパークという小説家は現代におけるすばらしい道化だとぼくは思う」という指摘には思わず唸った。その面からスパークの作品の特徴が挙げられる。おもしろおかしいこと、簡潔な言葉づかいの名人であること、着想が突飛であること、人間世界のさまざまな真実を直視する洞察力と勇気とをそなえていること。この4点であるが、これは前回読んだ短編集にも見事に当てはまるではないか。『死を忘れるな』についても、私は読んでいてなぜこれほど容赦ないのに嫌な気がしないのだろうと思っていたけれど、抜け目なくそのヒントもあった。「毎日の生活のなかでぼくたちが忘れたい、目をそむけたいと思っている不快な真実を彼女は容赦なく掘りおこすけれども、底意地の悪さとは紙ひとえのところで、奔放な笑いやいたずらっぽさによって彼女の発言はいつも爽快な後味を残す」。ああ、だからやはり楽しみながらでないと書けないのだなあ、こういう、これほどのものは。

 

そういえばスパークも大戦期には諜報機関に勤めていた人である。わざわざ挙げないが、こういうところから作家が多く輩出されているのはどういう所以なのだろう(ちなみにあとがきではその事実とは無関係にあくまでカトリック作家としてグレアム・グリーンとスパークとの比較がなされている)。作家になりそうな人が諜報機関と親和性が高いのか、諜報機関にいた人が作家になりやすい、あるいはそれに資する経験をするのか、それとも従事していた人間の割合からして作家になる者は実は少数で有意な統計は出てこないのか、まあわからないが興味深いことだ。そしていずれにせよGI6こと聖グロリアーナ女学院の情報処理学部第6課にスパークというメンバーがいてもまったく不思議ではないことがいまや明白なのである。

書訪迷談(7):恋色ミュリエルスパーク

 

ポートベロー通り―スパーク幻想短編集 (現代教養文庫)

ポートベロー通り―スパーク幻想短編集 (現代教養文庫)

 

 

まったくたまんないよ、こんなね、いいもの読ませられたら。いますごくどきどきしてるし、思い出すだけでにやにやが止まらなくなる。恋、しちゃったかも。

 

まことに気持ち悪い出だしで方々に頭が下がるが、ミュリエル・スパークの短編集がたいへんに素晴らしかったことを気持ち悪く強調したかっただけなので許してほしい。こういう、物語の句点の打ち方が圧倒的に巧い作家は読んでいて羨ましくって仕方がない。実に品のあるいじわるで、黒めのユーモアのなかにもかわいらしさが隠れている。そう簡単なハッピーエンドにはしてやらんぞ、だからといって安易に不幸にしてもやらんぞ、もうちょっとおかしなふうに、もっと面白いようにしてやる。こういう気概を感じるわけだが、悪意という感じではないので読後は清々しい。というかにやにやしてしまう。こんなの読者としては惚れてしまうに決まってる。

あまりふわふわした言葉で喩えてもままならないので、もうひとつ立ちいってみる。スパークの書く幻想物語は起伏に富んだ冒険譚の類ではない。現実的で、一見あくまで地味で(いきなり熾天使が「よっすどうも」みたいな感じで登場したりするが)、地に足のついた感じがあるが多分に動的で、わりあいに場面が飛んだり時間が未来過去へと移ったり、自由で奔放とも言えるかもしれない。なんとなくだが、わかりやすさを第一に考えてはいないような気がした。けど、わからないかというとそうでもない。けっこう伝わるのだ。というか非常に楽しめる。それはこう、意外としっくりくるものだ。

かように漠然とした印象を抱きつつ訳者あとがきまで辿りつく。そこにはスパークの考えなりがいくらか紹介されており、そのおかげで完全な答えではないが、それなりに得心できた。それによると「スパークは、読者によい人だと思われたくて、小説を書くのではない、小説を書く時の楽しさを読者に伝えたくて小説を書くのだ、と言っています」。あ、そうか、スパークにはこうするのがいちばんだったんだ! これが最も楽しめる書き方だったんだ! 自分の楽しさを優先しながらも、それでこれだけ人に伝わるものを豊かに表現できる手腕は見事というほかない(ほんと羨ましい)。

そしてこういう言葉も紹介されている。「現実(リアリズム)の表面にていねいに沈み彫りをすればくっきりと鮮やかな幻想(ファンタジー)が現れる」…うーむ、うべなるかな。これは不可分の関係だろう。物語の流れや雰囲気の創出にも言えることだけど、特に不思議な、それでいてもっともらしい人物の造形には現実における深い人間理解が本来なら必要なのだ。オーガスト・ダーレス『ジョージおじさん』でもそういう趣を感じとった覚えがあるが、むしろ幻想作品にこそリアルを見据える眼力が求められる。考えてみると、登場人物を「ひと癖もふた癖もある」なんておいそれと表現しちゃだめな気もしてくるではないか。彼らはもしかしたらわれわれと直に隣り合い、あるいは自分のうちに存在するのかもしれないのだ。

いずれを見回しても、現実をとことん追求しようとしているスパーク女史と違い、そこから逃げようとするきらいのある私の反省点だなあ。各篇を読み終えるたび、不意に聞こえる気がしたものだ。「でも、こういうものでしょう?」…御意、御意。

 

ミュリエル・スパークの小説はここ5年ほどで復刊やら新訳やら盛況である。だがもっと盛りあがってもいいように思われる。『マンデルバウム・ゲイト』もUブックスとか入るんじゃないかと踏んでいるがどうなるだろう。他には彼女の詩なども気になるし、本格的な分厚い評伝なども期待したいところだ。

個人的な考えを申せば、翻訳は過剰であるくらいがちょうどいいと思っている。翻訳の民は己の言語感覚を外来の文脈と摺り合わせ、(普通は)多大な努力と労力を総動員して言葉を精錬する。この言葉は、翻訳した者との関係だけに終始せず、それを享受する読者との関係において果てるわけでもない。実はこうした言葉は、それ自体が翻訳されたものだとわからなくなり世の中に「しれっと」馴染んでなおその翻訳語としての効用を発揮し、移し換えられた先の言語をじわじわと豊かなものにしている。ちなみにここまで真に迫っておいて申し訳ないが、これは私の単なる妄想でしかない。

いやしかし、T.S.エリオットなども言っていたではないか。ある文化が発展するためには他の文化の存在、それらの相互作用が不可欠であると(これはヨーロッパを語る文脈だったと思うがそれに限った話ではない)。畑は違うがコンラート・ローレンツヴァルター・グロピウスも同様の趣旨のことを書いていたし、和菓子のような日本独自と見られるものでさえ外来の菓子の影響なしには多様性を獲得できなかったであろうという話もある(青木直己『和菓子の歴史』)。

翻訳のような営為に関して私ができることというのは皆無に等しいため、なにを言っても外野からの勝手な要望にしかならない。だからせめて恩恵にあずかったぶんは功労者諸氏へのお布施として惜しまず散らしてゆきたい。そのために必要なのはなにより先立つアレだが、私の場合、それ以上に心の余裕なのだった…(゚∀。)オヒョヒョ