書訪迷談(10):そういう読書もある

 

白昼のスカイスクレエパア

白昼のスカイスクレエパア

 

 

むかし友人の下宿で飲んでいたとき、読んでいる本の話になったので私は西脇順三郎を薦めた。当然のように彼は西脇を知らなかったので、私の地元の隣町出身の詩人で、ノーベル文学賞の候補にも推薦されたやべーやつなんだとか簡単な説明をした。しかし具体的な内容に移るまえに彼は言った。「詩はわからないんだよなあ」。私はそれ以上もう踏み込まず、彼が持ち出した本について話題を深める方向に徹した。

この反応はもっともだった。私とてそれらしきことを言っておきながら当時は西脇の詩に初めて触れてからまだ数年かそこらで、詩とはこういうものであるということも知らず、また考えずにいたものだから話を深められる知識も覚悟もなかった。人の納得のいくようにできるかどうかという基準で考えれば、いまなお他人向けの説明はできかねる。

ただし現時点で自分なりに落としどころとしているのは、その西脇がT.S.エリオットを引いて述べたように「詩とは新しい経験の創出である」ということと、やはり西脇の言うように「形式を問わず、自分の審美的情緒をふるわせるものを詩と呼びたい」ということである。定義になっていないと思われそうだが、それは定義するというおこない自体が詩的でないことによるのかもしれない。それゆえ結局なんとでも言えそうだが、いま個人的には「詩はわからなくてもいい」と考えている。むろん私に理解する力がないからそうなっている節も多分にあるのだけど......いや、むしろそれだけか?

 

北園克衛という名前には西脇順三郎の著作や関連本を読んでいればだいたいどこかで遭遇する。なにやら詩人らしいということもわかる。調べてWikiなんか見てみると、実に多彩な才能の持ち主であり実践者であったことが見てとれるだろう。いろいろやりすぎたせいか、全詩集や全評論集が出されているのにそれでさえ全体の仕事のほんの一部しか網羅できていないという話もどこかで読んだ記憶もあるのだが、ざっと概観してみてもたしかに多作の印象だ(彼に限らず、戦前の同人文化華やかなりしころの人々が燃えたぎらせていた創作への熱意というものは現代のわれわれから見てもすごい)。

それだけいろいろな方面から表現を追求しているなか小説もしれっと書いていたようで、このたびおよそ2ヶ月ぶりに再読した『白昼のスカイスクレエパア』は北園の手になる39の短編を収めた好個の集成である。おそらくこれだって一部にすぎないのだろうな。なんやかんやと私から御託を並べるまえに、まずは帯に載る文と著者紹介を引用してみる。

戦前の前衛詩を牽引したモダニズム詩人にして、建築・デザイン・写真に精通したグラフィックの先駆者が、1930年代に試みた〈エスプリ ヌウボオ〉の実験。ーーーー書籍未収録35の短編。

北園克衛/ きたぞのかつえ(1902ー78年)三重県生。1920年代(大正末期)から詩作を始める。西脇順三郎瀧口修造らと並び、西欧の前衛運動と呼応した日本のモダニズム詩・前衛詩を牽引した。主な詩集に『白のアルバム』『黒い火』『円錐詩集』『ガラスの口髭』など。バウハウスの影響を強く受けたスタイリッシュな作風で、戦後はイラスト・デザインにおいても活躍、ハヤカワ・ミステリ文庫など手がけた装幀は膨大な数にのぼる。昭和10年創刊の主宰誌『VOU』は、詩はもとより写真、美術、建築、音楽、映像などをフィーチャーする総合芸術誌として今なお海外からの注目も高い。

さて、本書における本文以外の説明的内容となるとほぼこれだけだ。もちろん目次のほか各短編の初出情報、また難語や外国語に関する注など最低限の情報も付されているが、編者解説やあとがきのようなものは一切が省かれ、刊行の経緯や書名などに関してもまったく触れられていない。編集協力者のツイッターを覗いてみても立ちいった細かい点への言及はなされていなかった。これをどう受け取るべきか?

少なくとも私としてはなんの問題もないことだ。別に学問的ないし方法論的に読むわけでもなし(私にそんなことができる頭はない)、これで十分という気がする。「北園克衛はこの時代こういうことがあって、のちのちこうなることを考えると~」のような文脈で考えることもたしかに数多ある楽しみのひとつなのだが、本書を読んでいると、そうした余計な(と言っては本当はいけないのだが)情報を削ぎ落とそうとする編集態度というのは、むしろ読者がより純化した読書を体験できるよう配慮した行為であるとすら思えてくる。あまり過度な推測でものを言うのは憚れるところはあるが私は都合よく考えてしまう人間なので、出版側の非常に自己抑制された、俗気をなるべく排そうとする姿勢をここに見ている。まかり間違っても手抜きであるとは思われない。

それもまったく根拠のないことではなくて、まあ多分にこじつけではあるけれど、本書『白昼のスカイスクレエパア』の性質を考えたら(たとえ結果的なものであれ)良好に作用する工夫になっているのである。大正モダンの香気を存分に残した、全体を通してそよいでいるいわゆる「ハイブロウ」な作風は、私のように俗世から逃れたくても逃れられない「ロウブロウ」人間からするとこれ以上ないくらい心地のよい安息場所となってくれる。クリイム・ソオダとか、銀座とか軽井沢とか、香水や煙草の銘柄とか、全体とした時代なりの言葉遣いとか、時折に説明なく原語のまま載せられた外国語の詩とか、いちいちお高くあろうとするあたりには読みながらニヤケずにはいられない。通底した要素を持ちながらもジャンルの幅はわりあいに広く、随所に実験的試行は見受けられるけれども意外としっかり小説をしているため、これ1冊でなかなか多方向に楽しめる。装釘もこだわりを感じられる綺麗な仕上がりで、ちょっとだけ特別な読書ができそうな雰囲気の創出を助けてくれている。

だから(に全然なっていないんだけども)、北園克衛という詩人が書いた小説を現代的な文脈や学術的な意義から離れて比較的純粋に読めることには大いなる価値が付随していると言わねばならない。もちろんいくら頑張っても脳内で関連する思考や知識のうごめきは排除できないから厳密に純粋な読書体験っていうのはたぶん不可能なんだけど、これはあくまで具体的な現況から生じる比較的な話であって、「より」で達成できればいいことなのである。歴史学における客観性と、なんか似ているね(ちょっとなに言ってるかわかんない)。世迷言はともかく重要なのは、そういう気分を充足させてくれる体験であって、またこの本がそういう気分の充足を大いに実感させてくれたことである。

 

あまり本の内容に触れていないので紹介としても失格だし絶対に本書の魅力を露ほども伝えられている気もしないのだけど、まずもって読み物としてのクオリティも相応に備えているのでオススメしたい。それからぜひ、なにかしらの詩を読んでもらえればなによりと思う。西脇順三郎はなにを書いても詩になった人だが、北園克衛は詩を見なくても詩人だとわかる。いずれにせよ、結局両者とも根底からきわめて詩人であったということだ(上で引いた西脇の定義から考えてもね)。そういうことで特にこのふたりの詩を読むとしみじみ思う。詩はわかるわからないの次元から離れ、まず体験するものとして楽しんでよいと。そして感じる。こういう読書もあるのだと。