書訪迷談(14):どういう男性に?

 

影の谷物語 (ちくま文庫)

影の谷物語 (ちくま文庫)

 

 

かつて、WOWOWのノンスクランブル時間帯に観ることができたアニメは、新潟というアニメ不毛の地、それも片田舎の河岸段丘の上に住まうこじらせたオタクにとって数少ない娯楽のひとつだった。当時はまだネット配信もあまり充実していなかったからテレビで観るほかなく、しかもこのへんはテレビ東京でさえ手続きを踏まないと視聴できないようなところだ。休日の朝や夕方から夜にかけてのものを除けば、ちょぼちょぼ深夜にやってるくらい。それも少なくて各クールをリアルタイムで網羅しうるようなものではなかった(はず)。

そんな田舎の救世主ノンスクで観れたアニメのひとつに『機神咆哮デモンベイン』というクトゥルフを下敷きにしたロボットモノがあった。その印象、そんなでもなかったな、と当時の私は思ったし、ぶっちゃけマイナスまであったかも。少年時代に触れたアニメは大方出来を問わず思い出補正がかかりやすいなか、自分で言うのもなんだが、なかなか厳しい評価である。のちに大学生になってから原作を遊ぶと非常に面白くて、「やはりアニメが...」などと答え合わせをしたことも追憶される。

思い上がりを言うなれば、すべてではないが他の多くの作品、特に評判のある原作を持つ作品たちと同様、あの時期にアニメ化されたこと自体が若干不運だったのかもしれない。南無。そしてこのころの悲劇の核心的悲劇性は、誰も悪くないところにある。近頃どういうわけか比較的マシになった、というのもあくまで私の観測と主観と体感による一種のドグマでしかないけれども...おっといけない、余計な妄言にまで及んでいた。それに私にとって大切ないくつか作品にも、このころのものがあるではないか。

 

話を戻す。そのアニメ版に出ていたかどうかもはや記憶がないのだが、ダンセイニくんという不定形キャラがいた。これは一種のペットというかベッドで、声も変わる不思議生物だった。題材を鑑みればこの名前も相応の意味を帯びており、神話の作者たるH.P.ラヴクラフトに影響を与えたロード・ダンセイニあるいはダンセイニ卿こと第18代ダンセイニ男爵エドワード・ジョン・モアトン・ドラックス・プランケットにちなむ。

なお私はラブクラフトクトゥルフにはそれほど興味も示さずに生きてきた人間で、作品も読んだことはなく、その近域、すなわち先達にあたるダンセイニ卿、あるいは後発世代のハワードやダーレスのような人たちの書いたものに少々だけ触れていた程度だ(ちゃんと読んだことがあるのはダーレスくらいか)。

しかし改めて収納ケースや本棚を眺めてやるに、名前を聞くばかりで済ませてきていたダンセイニの作品を自分が意外と所有していることに気づいた。文庫中心だが短編所収本も含めれば10冊ほどになる。あまり意識をせずとも見かけたら買っていたから次第に集まっていたようだ。せっかくだし利用しない手はない。自分のしたことなのにどこか他人事な気がしなくもないが、まあいいだろう。いまや、幻想文学に偉大な足跡を残し、大正期日本の文学にも影響力を有したこのアイルランド人による物語世界に踏み入る好機会を得た。『影の谷物語』はその遊行の最初の到達点である。

 

この物語には「語り手」がいる。全12章からなる話が進むのは彼の手際によるものだ。かつてこのような人物がこのような冒険をしたことを読者にお伝えするのである、というスタンスから語りがおこなわれ、時折に「こちら」を向いて人生訓めいた言辞を垂れたり、筋をはぐらかしてみたり、こういう理由があるから説明しないとか言い訳をしたり、自由にする様が実に快活である。本作はダンセイニの処女長編ではあるから相応に苦労はしていそうな気もするけれど、きっと書いていてかなり楽しかったのではないか。もちろん作者と作中の語り手をそのまま同一視しようとは思わないけれどね。

さて、まず私が注目した、というか見せつけられたとも魅せられたとも言うべきところはすぐれた人物造型だった。多くの登場者に彩られる本作だが、主役たる快男児ロドリゲスとその忠実なる従者モラーノがやはり格別にいい。とりわけ後者はどこか抜けたところがあるものの機転がきくし、自分の考えを持ち、役割と領分を弁える一方、そもそもロドリゲスに仕えることになる経緯からして普通じゃないところなど、どこをとっても最高におかしい。特にちょくちょく彼が調理をする場面などは本作屈指のオアシスではないかと思う。訳者の解説部分にも、真の主人公はモラーノかと思われるほどにダンセイニの愛着が感じられると書かれているが、ここには自分も完全な同意を示したい。

モラーノに関して個人的に特にお気に入りなところは、間違いもするところである。ゆっくりと思案し導き出す答えが主人を大いに助けることもあれば、判断が結果的に誤っていることもあり、ロドリゲスの意見に押されて流されたり、また忠実であるがゆえに出た行動で主人をひどく怒らせてしまった場面(本作でも特に好きなところ)もあったりと、必ずしも正しいというわけではない。彼の魅力としての人間くささは、こういうところからも感じられる。

その一方でその主人ロドリゲスも切れ者で、信念があり、その由緒の誇りに足る若武者だが、決して完璧超人として描かれているわけではなく、期待が外れてけっこうしっかり落ちこんだりするあたりカワイイ性格をしている。実力者なのだが彼よりも強い力を持つような人物(作中2、3人はいる)と相対して圧倒されたり、冒険が成功ばかりではないなか弱さを見せたりもしていた。そういう意味で(もちろんいい意味で)彼だってやはりどこか人間くささを隠せていない。モラーノともども実に愛すべき者たちではないか。

『影の谷物語』のもうひとつの魅力は(どうしても私の言い方だと陳腐くさくなってしまうのだが)やはり豊かな表現力だろう。それはもう上で触れた語り手や人物描写といった領域において存分に発揮されている。しかしもっと大きな領域、たとえば生活にいそしむ人々や彼らの生活圏、それを取り囲む広大で深みのある鮮やかな自然、また魔法のような想像を絶する超常などに対する感性というか、世界を把握する感覚においてダンセイニは明らかに非凡な才を示している。あらゆるところに眼差しと実感があるように思われるのだ。

ダンセイニという作家がもともと本作(舞台はスペインである)よりさらに幻想性の強い品々を創作してきたことを考えれば、魔法が存在するとはいえ、現実基調の世界を書き表すことにもさしたる難度もなかったかもしれない。だがことに戦争の描写に関しては鋭い文明批評の、天体のそれに関しては「この時代にはもうこういう観念が可能であったのか!」という感慨の、それぞれ強烈な印象を私に残してくれた。読ませてくれるではないか。私はちょろいからなんでもすぐに感動してしまうのだが、この圧倒的筆力に、ああいつでも手の届くところに他の作品も持っておいてよかったなあと思う。

最後にその表現力の関連で触れておきたいが、読後はマンドリンの音色に耳を傾けたくなる。というのも主人公ロドリゲスは剣だけではなくマンドリンを佩び、時々に歌声と演奏を披露していたからである。そこに本作の語り手の、そしてもしかしたらダンセイニの音楽観が表れている気がして、私はどこか滋味の沁みてくる感を得たのであった。引用で記事を締めくくることとしたい。

マンドリンが作られた時、マンドリンは、ただちに人間のすべての悲しみを知り、誰も定義づけることのできない、名づけようもない昔からのすべての憧れを知ったのだ。