なるべく早く行け

鉄は熱いうちに打てというが、古本は別に新しいうちに買えというものでもない。いつ買ってもよい。古本屋も、やはり早いうちに行けということはない。いつ行ってもよい。ただ、先日ついに町田の高原書店が閉店したが、そういう機会であれば早めに行っておいたほうがいいかもしれない(私もたびたび足を運んだところだから残念だが最近はもう行ってなかった)。

ともあれいつ買いに行ってもよい古本だが、いつでも買えてしまうため、その折つい多めに手を出してしまうのだった。こういう事態をなるべく避けようと今春から努力したおかげで、新刊書籍では文庫本サイズを月に数冊、こと古本に関してはここまで近年の傾向に比して圧倒的に少ない数しか買ってない。いや結局買ってるやんという話だが、千里の道も一歩からというやつで、この忍耐と抑制の精神にさらに磨きをかけてゆこうとするものである。

それにしても自分ですら信じられないのだが、そこそこ我慢できているのはなんとも不思議な話である。まさか欲しいと思われる本はあらかた買ってしまったのだろうか? たしかに自問してみてもパッと書籍の名前が挙がらない。しかし結果から言えば、これは誤りであった。

新宿駅西口広場の古本まつりはおよそ半年かそこらくらいの周期で開かれる古本市なのだが、今日からだと知って、久々だしちょっと寄ってみるかという軽い感じで(じゃあなぜわざわざ初日の開場待ちまでしてるんですかね...)きょろきょろ見回ってきてみた。それでよくわかったのだが、欲しい本をあらかた買ってしまうことなど不可能なのであって、ちょっと棚を眺めただけでも「あっ、これ(そこにあれば)買いたかった本じゃん!」と、あたかも以前より切実に欲していたかのように自らの記憶を虚飾してしまう。

いや待て、あれもこれも求めては際限がない、文庫程度に限定して、そこにも優先順位をつけて、なんなら値段の制限も設けねば……などと、さも自分は我慢できてますよというように己に言い聞かせながら思案に思案を重ね、いろいろ苦悶を繰り返しているうちに遅刻しかけたというのは笑い話である。

とりあえず、そのようにして購入した品目は以下のようになった。

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上出来の釣果ではないか。この古本市では西脇順三郎『ヨーロッパ文学』やエルンスト・ユンガー 『パリ日記』を格安で手に入れたことがあるから、それに比べれば傑出した逸品というものはないが、条件をかなり絞ったなりになかなかの買い物ができたと言えよう。しかも本当に安かった。ありがたいことである。

結論として私がここで主張したいのは、古本はいつ買ってもいい、古本屋はいつ行ってもいい、しかし古本市は早く行ったほうがいいということである。事情を調べたことがないから妄言に等しいが、思うに、こういう場にはおそらく相応の選別を経た商品が並ぶであろうし、体感としてやはり安い気がする(私の錯覚だろうか)。普段と異なる立地で売られるという状況とその雰囲気も、なにかしら人間感情に作用しているかもしれない。正気であれ狂気であれ、目利きであれ不見識であれ、かように魔的な磁場にあっては購買意欲もほとんど抑えられたものではないから、いい本はすぐになくなる。いい本からなくなってゆく。

だから私は重ねて言いたい。古本市にはなるべく早く行くべきである。まあ私の場合、こういうのはまたしばらくおあずけなのだが。おそらく次回は私の誕生日のころかな。

法事

実は、まさにたったいま帰省の途上である。昨年2月に92で亡くなった祖母の一周忌と、101まで生きたという高祖母の三十三回忌(たしか厳密には35年くらい経ってる)をガバガバ換算ながら一緒に催すからだ。ちなみに私の場合、兄弟して平成生まれなので高祖母との面識はない。ゴールデンウィークにも帰る予定だから行ったり来たりと少しせわしないけれど、なんだかんだ実家に帰れるというのは気分が落ち着いていいものだと思う。

 

例によって今回も実家に「帰省に持ってく本」問題に直面したが、結局あれこれ選んでしまいそうなところを、よく我慢して決められた、はず。読みきるための余裕と時間があるかはまだわからないけれども。身体感覚に合った本との付き合い方もまた模索の中途にある。

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続・きわめつけ

昨日のブログを書き終わり、よしそろそろ寝ようという時分のことだった。玄関口の棚の死角からピロっと紙片の角のようなものが覗いている。なんだこれと拾いあげてみると、それは不在連絡票であった。差出人欄には出版社の名前がある。あの本だ、と。しかし発売日は4月初頭のはずなのでこれには嬉しい驚きを覚えずにはいられなかった(配達員の方には申し訳なかった)。どうやら昨日が著者の命日だったようで、納得した次第である。当日中に受け取ることはできなかったけれど、出版人の粋を見た。ということで届いた書籍はこちら。

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私は椿實をこれから読もうとしている人間なので、いま語れることはほとんどない。ただいつからか、日本の幻想文学のなかでも独特の地位を持っていた作家ということで気になっていた。それに彼を評価している面々——稲垣足穂三島由紀夫柴田錬三郎澁澤龍彦ら——からして実によいではないか。この時点で確信できるものがある。だからといっては安易なのだが、とりあえずすでに刊行されていた『メーゾン・ベルビウの猫』は買っておいたのが去年あたりの話。

そして棚にしまっているうちに今度はこの『メーゾン・ベルビウ地帯』の同版元からの発売が決まり、ついに作家の業績を網羅できるようになったのである(表記は現代的になっているが私としては許容範囲のこと)。『猫』のほうはいつも通り書店で求めたが、今回は出版社に直接予約をして購入した。その理由はいくつかある。

ひとつには、本書の初版に印字される番号のうち比較的早い数字のものを入手可能であるとの告知を得たことによる。こういうの1回やってみたかったのだ。しかし実はこの報せを受けた時点では予約の決め手にはなっていなかった。悩みに悩んだ。発売の予定日は迫る(少しだけ伸びてくれて結果的に助かった)。

しかしあるとき続報がくる。これこそふたつめの理由なのだが、前作からも今作からも漏れているが発見時期的に編集作業に間に合わず収録されなかった作品が8頁ほどの冊子の特典として付いてくるというのだ。決定打。オタクたちなら、きっとこの気持ちをわかってくれるだろうと勝手に願うものである。こういうのに弱いのがわれわれの性——SAGA——なのだ……。

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そして2作品を並べてみるとこのような感じ。

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造本からして趣味心をくすぐるし、素晴らしい仕事のあらわれとしか言いようがない。安くはないのだが、これだけのこだわりを感じられると微塵も損をした気分にならないものだ。こうして内容面でも装釘の面でも手の込んだ書籍を発売してくれる会社があるうちは、われわれのような人間(どんな人間だ?)は大丈夫だ。幻戯書房さん、やはり好きだな。たくさん持ってはないけれど、たまにどストライクを出してくれる。そうそう、このようにね。

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昨日も触れた北園克衛『白昼のスカイスクレエパア』もこの版元から出されたもの。自分でも改めて眺めてみると、なんとまあ趣味がわかりやすいことだろう。でも、なにか足りない気がしなくもない。瀧口修造かな? あれも欲しいのだが、残念、しばらくこの手の本を買うのは控えねばならない。その期間もなるべく長いほうがよい。

それでも、逆らうまでは行かなくとも時流に乗らない出版社や、時代の片隅で流行とは異なる文脈に目を向けられる愛書家の人びとを、勝手に応援する人間ではあり続けたいな。

 

そしてうちのイカしたメンバーたちもまた歓迎してくれているようす。よかったね。

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きわめつけ

専門的になにかをやらかしていたころほどではないが、Amaz◯nで本を買うとポイントの貯まること貯まること。たくさん買うとたくさんそのぶん貯まる。そしてたくさん買っていたのでたくさん貯まった。さすがにもうそろそろキリがないからそれはやめようというのが最近の決心。ということで区切りとして、ポイントを使って古書を購入した(まだ余ってるけれど)。きわめつけ、ということになるだろうか。

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詩人北園克衛の評論を集成したもので千頁弱ある。これでも厳密にはほとんど集めきれていないというのだから北園の筆力たるや驚嘆の極みだろう。ちなみに彼の書いた小説についてはこのブログでも取り上げたことがある(書訪迷談(10):そういう読書もある - ネオ・オスナブリュック歳時記)。せっかくなので並べてみた。

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しかしこの期に及んで詩ではなく敢えて評論に手を出したのはどういう了見だろう。といっても実際のところ深い考えはない。ただ私は詩人の評論とか、映画人の書いた文章とか、画家の小説とか、そういうのがなんとなく好きである。良寛さんが書家の書や詩人の詩を嫌ったというようなのではないが、専門性が別の指向性をもって一風変わった感性を輝かせるのが好きである。西脇順三郎はなんでも詩で書いたが、特にああいうのがいい。北園克衛も詩ではないものを見てもすぐさま詩人だとわかる。こういうのがすごくいいのだ。

 

うちのイカれたメンバーたちも歓迎してくれているようす。よかったね。

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ところできわめつけはもう1冊ある予定。出版社に直接注文したもので、発売日を考慮すると4月にかかってしまうかもしれないが、こちらも届いたら紹介する予定だ。

そしてこれ以降、買うより読む、買うより描く、買うより書くを実践していきたいので、こいつまた本を買ってるっぽいなという気配があったら叱ってくださるとありがたい。気配だけでいくら言っていただいても結構。そんな気配を出すくらいに我慢ができていない私が悪いのであって、気配を消失させるまではなにも達成したことにはならないのである。まあ、ちょっとは買うんだけどな(オイ)。

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書訪迷談(15):痛ましき肖像

 

エゴン・シーレ―二重の自画像 (平凡社ライブラリー)

エゴン・シーレ―二重の自画像 (平凡社ライブラリー)

 

 

「欲しいと思ったら買い時である」。友人が私にかけてくれた金言だ。その場で購入するか否か散々に迷って諦めたけれど、帰路のもの寂しさから変心をもよおし、やはり買おう、明日買おうなどと決心して次の日も再訪するがもう売れてしまっていた......なんて経験が一度二度では済まない程度の回数あると、この言葉も随分と響くものだ。痛いほどに。

つまらぬ出し惜しみをしたせいで特に強く後悔した思い出がある。もう何年もまえ、ある古書店ヘルマン・ブロッホ『夢遊の人々』文庫版が上下巻揃いの美品として3000円で売られていたのを買い逃したときだ。決して安くはないが価値を考えればお手頃だというのに、財布と相談しつつ手を引いてしまった。あとは上に書いた流れのとおり。まったく、まったくもって惜しいことをした。

どうしてこれほどまでに悔いが大きいのか。というのも、その文学作品としての質もさることながら、文庫版は各巻でエゴン・シーレの「ほおずきの実のある自画像」と「ウァリーの肖像」が表紙になっていて、豪華な装釘ではないものの、一体の完成されたパッケージとして実に洗練された存在感を誇示しているのだ。シーレとブロッホ、同時代を経験するふたりの同世代の同国人による、後生の作為による合体技。わが手中に来たるべき書物、いまだ千秋を想う。

デザイン面で優れるとか、材質にこだわるとか、適切に内容を象徴するとかした表紙は世の中に多かれど、心の深みまで刺さるものは限られる。機会や出会うまでの文脈にもかかる。個人的に、マルセル・ブリヨン『幻想芸術』や坂部恵『モデルニテ ・バロック』などを見たときも同様に、その表紙への絵画のあしらい方に格別な感動を覚えた。言うなれば四次元的対象を視たような......そのような選択の妙により、内容を反映した書影を与えられるだけにとどまらず、化学反応さながらの作用で訴求力を帯びはじめ、諸要素の組み合わせであるところの単なる「合計」ではなくそれ以上に豊かな「全体」として存在感を得ることがある。

あくまで私が拡大解釈的にそういうドラマ性を見出してしまったという個人的な感覚体験の話でしかないが、それにしても前提として編集の側で優れた仕事がなされなくてはならない。ここまでくると技能や知識の問題を超越している。審美的情緒を震撼させるため、関係性の美学を追求できる感覚、すなわち詩情がなければならないと思うのだけれど、どうだろう。

 

本題に入る。エゴン・シーレの話題について考えたら上の流れになったのであるが、見事に着地しなかった(導入ヘタクソすぎかよ)。

シーレはわりあいに私の好きな画家だ。といっても詳しくないから感覚でいいなと思うだけで、ざっくり夭折の画家であることを知るのみだった。だけどやはりあの一見歪なような美しい身体感覚が私の心をどこか穿つのであり、興味は持ちつづけていた。そんなある日、ふと坂崎乙郎の著作を読みたくなったので蔵書をごそごそとしてみると、この『エゴン・シーレ 二重の自画像』が示し合わせたように見つかったのである。

本書は伝記であるから、生い立ちから家族関係、人間関係や経歴などをなぞりゆくものである。実際、いろいろなことを知ることができた。父や叔父がシーレにとってどういう存在であったのかなど興味深く、投獄の経験は痛ましく、また画風に関しても短い人生における変遷がはっきりわかる。

しかしこれは本質的には目的意識の明確な美術評論であり、絵画の詳細な分析が比較を交えながら、時にシーレの内面を探りながら、じっくりなされてゆく。対比されるのはゴッホクリムト、ココシュカといった画家たちであるが、必ずしも芸術家に縛られない。ときたま差し挟まれるムージル(本書ではムジール表記)の『特性のない男』の記述は、シーレのことを語ったものではないのに違和感なく収まり示唆的だ。そして誰よりもウァリー。彼女の存在が、シーレにとってそうであったように、あまりにも大きい。全10章中、第7章と第8章がそれぞれ「ウァリーⅠ」「ウァリーⅡ」に割りあてられていることを見れば一目瞭然である。

この記事の第3段落で触れた肖像と自画像についての記述もある。坂崎によれば、 

同一人物がかりそめに男と、女の形をとって現れたにすぎない。(p.150) 

本書を読み進めるゆけばゆくほど、シーレとウァリーの関係が男と女や画家とモデルなどへと単純に還元されえない不可逆的なものに思われてならなくなる。それほどの重大さ。それゆえか、著者はシーレのみならずウァリーの内面にも分けいり、それを露わにする。ふたりをまるで同一視する。関係性の完成形と見なしたのであろう。ウァリーとわかれて別の女性と結婚したシーレを、画家として幸福であるなどと決して描写していない。あまつさえ、ある面においては後退と言いきる。

結論ありきの批評や過剰な読みこみには一種の「越権行為」を感じてしまい、いつもなら好きになれないことが多い。しかし本書の叙述はすれすれの行軍を継続しながら、その種の嫌みったらしさを放っていない。疑問を抱くよりも先に、坂崎乙郎エゴン・シーレの、時代も国籍も異なるはずの両者の気質の親和性だろうと思いあたった。日記などシーレ自身の言葉が引用されることもあるが(本書とは別に邦訳もある)、不思議と著者の論調にしっくり沿う。著者がシーレに合わせようとしたという無理強いの感もない。あるべくしてある。もっと核心的な問題ではなかろうか。それがなんなのか、知る由もない。あるいは私の思い違いか。

「二重の自画像」という副題は意味深、というより多義的である。シーレは自分が2人、3人と重なっている自画像もいくつも残しているから、そこにちなんだものには違いない。しかし坂崎の心眼で見れば、それが時にはシーレとウァリーとなるのであり、画家自身の複数性であろうとしていない。それに本書ではウァリー以外にも父アドルフ、ゴッホクリムトらも本書の主役の随走人に選ばれているが、彼らとの重なりもまた一時的ではあっても「二重」の様相を見せる。それゆえ自画像はもっと多重と判断することもできるかもしれないが、象徴的にはやはり「二重」なのだ。

しかしまだもうひとり、いる気がしないだろうか。シーレとの重なりを見せる人物の気配を感じないだろうか。私には心当たりがある。それは著者、坂崎乙郎である。もちろん彼は本文中で自分とシーレを同一視しようとはしていない。思うに、する必要がなかった。

シーレが28で死んだのに対し、坂崎はその倍とほんの少し生きた。逆に言えば、前者ほど極端ではないが、たったの57で死んだ。スペイン風邪で亡くなったシーレとは異なり、自裁である。シーレと同じく生前は世間から必ずしも広く評価されなかった、盟友の鴨居玲自死を追ったのだとされる。既述してあるように国籍も年代も異なり、出自もまた違って、どこにも共通点はない。しかしどうしてか、輪郭は揺らぎながら、重なろうとしているように感じられる。

エゴン・シーレ』は遺著だった。あとがきによれば、長らく書きたいと思っていたのだそうだ。その筆致は迫り、夢中にありそうで醒め、過剰に生き生きとして、生々しいとさえ言える。これほどまで文体に生を宿らせてしまったら、肉体はもう死ぬしかない。彼は最後の著作の執筆中から自分の死を本当に覚悟していたのではないかとさえ思う。研ぎ澄まされた感性。シーレもその持ち主だった。それはあまりにも鋭く、よく言われるようにあまりにも脆い。それで痛々しく切りつけることしかできなかった。誰を? 書く対象、ここではシーレを。すなわち自分自身を。

つまり言いたいのは、本書が坂崎によるシーレへの追悼文であり、自身の遺言であり、画家ではない人間により描かれた自画像の試みだったのではないか、ということである。だからこそ読後、心のなかにふたつの並ぶ絵画が見えたのではなく、「二重の自画像」がかかっているように感じられたのだ。

 

本の内容をよく理解していないことは、混乱した文章からもおわかりと思う。ごまかしばかり、まことに進歩がない。ここまで半ば確信的にテキトウをこいてきたが、自分でつけた傷だらけの身のままこの世を去った彼らのことを思うと、私の文章などすべて陳腐に帰するしかないだろう。というか私こそが「越権行為」の張本人なのでは?

ところでクリムト展が4月から東京都美術館で開催されることは知っていたのだけど、ほぼ同時期に国立新美術館で「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」というのも開かれるそうだ。基本的にはクリムトが人気なのだろうが、それに乗じてシーレも、特に後者の展示ではじっくり鑑賞することができそうで待ち遠しい。

 

最後になるが、本記事の導入で書いたように買いたいものはそう思ったときに買いたいのだが、やはりそうはいかない。金銭事情という実際的な問題もある。しかし運よくそのへんの条件が重なることもある。

先月、あるネット上の中古品店で、とある長編叙事詩の文庫版全4巻セットが売られているのを見つけた。Amaz◯nなんかで見ても各巻値段が高騰ぎみだが、なんとそのセットというのが他で確認できるどの巻の1冊ぶんの値段よりも格安なのだ(2月半ば)。しかしよくよく眺めれば写真も掲載されていないし、状態の記載も簡素で、問い合わせも受けつけていないとくる。

賭けだった。たしかに余裕はあるのだからひと思いに注文することもできるのだが、だからといって重度にヤケありシミあり破れありボロボロの悪品を送りつけられてはたまったものではない。私は悩んだ。運命に挑戦するべきか、否か。私の戦場はイマココなのか。もっといいものが安く手に入ることもありえるのでは?

いや、これまでなかったものが今後もあるわけなかろう。都合のよい思考はよせ。甘えだ。『夢遊の人々』の悲劇を繰り返すわけにはいかない。もうあんな惨めな思いはごめんだ。さあ、そのセットをカートに入れろ。ついでに他にもいろいろ買おう。必要情報を入力し、注文確定ボタンを押すのだ。私は自分の運命に挑戦した。

……そして勝利した。届いたのは経年を感じさせるがおおむね美品、しかも全巻帯付き。言うことなしの完全無欠な勝利となった。そして友人のあの言葉が正しいことを完璧なかたちで証明したのである。「欲しいと思ったら買い時である」と。

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