書訪迷談(4):文体仮説

 

ワルプルギスの夜:マイリンク幻想小説集

ワルプルギスの夜:マイリンク幻想小説集

 

 

私に指導教授といえる人はふたりいた。両者とも同年代で、近い時期に同じ地に留学し、それぞれその正式な門下生だったわけではないもののある歴史家の謦咳に接している。その人はわりかし保守派と知られたせいか本邦学界では長らくスルーされがちで、最近は評価が改まっているものの翻訳状況はおしなべて寂しい。数年前に本国で出た彼の論集の編者もあとがきで「若い人が彼の書いたものを手軽に読めないからこれを編んだ」的なことを語っていて向こうでもそうなのかあと少したまげてしまった。

ただ翻訳に関してはおそらくこれだろうという理由がある。その代表作は彼が学者としての人生と責務をかけて遺した三巻本の大著で、合計2700ページ近いのである。とてつもなく膨大な学識を背景に著された畢生の書を訳すとなると労力がもうただごとでは済まない。さらに推測でしかないが、彼が名文家であることも壁になっている気がする。論敵をして「妬ましいばかりの文体」と称された、論文においても随筆寄りの書きものにおいてもかなりの程度で一貫した叙述である。唯一の邦訳も私から見れば文章巧みな碩学の先生による仕事なのだが、それほどの人でさえ(紙幅の都合など諸事情があったろうが)全訳を断念せねばならなかったのは相当なものを感じさせるではないか。

とはいえ日本に翻訳を担える人はいないわけではない。ちょっと希望的観測だけど、もしや誰かが水面下で刻々と話を進めているのではと思いたい。それかいまはまだ巡り合わせが悪いだけなのだろう。

 

一方で別の領域に目を移すと、幸運な巡り合わせもあるものだ。わが国はグスタフ・マイリンクの翻訳者を複数人持った。いくつも本が出ている。われわれはそれをなんらかのかたちで手に取ることができ、世人の目を盗みながらしれっと隠密の世界に浸ることができる。これはちょっとすごいことではないか。決して訳しやすい話や文章ではないだろうに。

なかでも最新の訳業は垂野創一郎氏による『ワルプルギスの夜 マイリンク幻想小説集』となる。この本は初期短編数作、長編2作、後期短編数作、エッセイ数編がほぼ時系列順に並べられていて、なかなかの贅沢だし楽しめる構成だ。マイリンクがどのような作風の変遷を辿るのか、またはなにが増えてなにが消えたのか、そういう読み方ができる(できたとは言っていない)。それに個人的にはエッセイのような文章が最後にあるのはありがたかった。目次でその存在を認めてから読み進め、こういう作品を書く人はどんなエッセイを書くのだろう、もしかしたらああではないかこうではないか…と、各編を読み終えるたびに予想に従事した。その結果としては7割ほどは当たっていた感覚であろうか。しかし残りの3割が致命的な外し方だったとな思わされるあたり、この作家の底知れぬアレを感じるところである。

ところで相変わらず具体的な内容に触れることは避けるが(知りたくば作品に触れてね主義)、そのうえでマイリンクの魅力について語らねばなるまい。しかし読みながら言葉がなかなか浮かばなくて困ったものだなと苦笑いするありさまであった。単純な狂気などではないが作者が一定のラインよりも向こう側へ行ってしまっているせいか、文学全般にしてもオカルティズムにしてもなんの知的背景も持たない私に論じられることは限られてくる。にもかかわらず読書中は非常に有意義だった。それはひとえにマイリンクの小説が「文体の体験」の境地へと誘ってくれるからだろう。これはおそらく訳者の功績も大きい。

文体を体験した、というのはどういうことだろう。実は私にもまだ漠然としか感じられておらず、もしかしたらこの字面を見て他の方が想像できたことにすら及ばないかもしれない。ただおそらくなにかこう、そのときのことを外部化しにくいものとして感じられた、というような…いや意味がわからんな。要するに要せてないけれど、語ったところでそれが私の抱いた感動の十分な証明にはならない、みたいな言い方ができるだろうか? いやいや、全然わからんよな? うーんじゃあ、感動は解体し分析して伝えることもできるがそれは私の体験の説明にならないのでもどかしさ感じる…ただ長ったらしくなっただけだな。いままさにその問題に直面しているが、語るほど言いたいことが喪われてしまう、という表現でも私の論旨の本質を十全にカバーしきれない気がする。

こうなるともう気になったら読んでくれとしか言えないのだけど、これで読みたくなる人などいなさそうなのが悲しい。でも誰かがこれを読んだとして私と全然同じではない感動を体験したとき、その人がその感動をとてもじゃないが伝えられないとなったとすれば、その人は間違いなくそれを体験したのであり、私はそのことに共感できる(!?)。ときにあまり多くを語らないあるいは語れないことがより豊かな相互理解を示す場合に働いているメカニズムというのは案外こういうことではないか。

むかしライアーソフトが出した『Forest』というゲームはまさに一体の経験だった。システム、テキスト、ストーリー、絵、背景、音楽、声、SEなどの諸要素がひとつのまとまった体験として私に把握された。もちろんそれらの良さを個別にも組み合わせながらにも論じることはできるが、それらを一気に受け止めた私自身の一体の経験は説明しえない。そのとき総合芸術としてのゲームが目前にあることを了解したことをどうやって他人に説明できようか? あるいはチェリビダッケ的な「音楽の現象学」の他媒体版とも言い換えできようか。彼がレコーディングに対していい顔をしなかったのは、音楽が演奏されるその場で響きを通して人間に体験されることこそ本質的だと見なしていたからだ。

いちおう弁解しておきたいが、決して排他的に共感の不可能性を推進したいのではない。むしろ逆に、それでも人間はたしかに共感のできる生き物なんだと言いたい。ここに書ける内容はまだ現時点で試しに言語化できたことにすぎず、今後よりよい思考や表現を生み出すための標識としてここに置かれただけである。私も常に正しく答えが出せるだなんて思い上がりたくないのだが、そのなかでもそれなりに頑張っておくのが筋ってものだろう。だから『ワルプルギスの夜』にはまた戻ってくることになるはずだ。すぐには無理でもまた帰ってくるぞと言える本に出会えたことは、たいへん幸せな意味のあることではないか。言い逃れのようだけど。なにより魅力を伝えきれない実力不足は無念至極なので、次こそもっとうまくするぞとの意気で引き続き生存したい。

 

うーむ、それにしても無理のしすぎで混乱してしまったり慣れないことに余計に体力を使ってしまったり本当によくない。正面きって称賛を与えるべきものだというのに、自分の態度は礼を失している気もする。

いやそれにしても、これといった文体のない人間からすると文体あるものすべてが非常に羨ましい。めえぜるさんの文章はいまだ目標もないまま行先不明である。もしかしたらそもそも行方不明であったのだけど。