書訪迷談(3):われわれの持ち弾

 

第三の魔弾 (白水Uブックス)

第三の魔弾 (白水Uブックス)

 

 

映画でも漫画でも、もちろん小説でも、史実として知られる出来事や実在の人物の生涯を題材にした作品に触れるとき、だいたいどうなるか知っている。だからこちらとしては「この戦いはこういう理由で負けるんだよなあ」とか「このあと亡くなったんだよね…」とか展開を先取りできてしまうのだが、そのわりに歴史モノは普遍的に人気があってあまり衰えないし、私もけっこう好んでいる節がある。実際のところ作品がリアリズムに徹したとしてもそれを愉しめる人は多く、また事実と事実の間隙やその細部に素材をうまく詰めて一種の可能性のある「解答」を呈示する作品も少なくない。言わずもがな話がある程度以上まで面白くなっていることこそ大前提ではあるけれど。

しかしまたあるとき、ちょっと期待してしまう。「こうならね〜かな〜」と、史実に反した展開を。異なる運命を。それゆえか隙間を埋めることに飽きたらず改変やIFでもって立派な作品を仕上げてしまう人々がいて、彼らにはいつも肯定的な意味で驚かされる。またそれが素晴らしいファンタジーに結実することもある。たとえば私の好きな漫画にも河惣益巳『サラディナーサ』や石川賢『魔空八犬伝』など歴史に取材したものがあるが、これらは多少リアル寄りとファンタジー路線という性質的な差はあっても、面白さの観点での優劣はとてもじゃないがつけられない。こうした領域でも二項対立に解消できない幅広い度合いがあり、またさまざまな種類があり、われわれが幸せなのはそれらを楽しめるよう選択肢がいつでも豊富に与えられていることだと言わねばなるまい。

 

レオ・ペルッツ『第三の魔弾』は、そうした選択肢のうちのひとつである。もちろん歴史的に大がかりな改変はない。しかしコルテスのアステカ征服がこのような姿で映し出されることになろうとは、このような綺想のうちに照らし出すことができようとは、当初は寸分も予想できないことであった。

一方では歴史的事実があり、また他方には魔弾の説話(オペラで有名)や悪魔との契約といった非現実の要素がある。この手の創作で重要になるのは「そのあいだ」での立ち回り、ふたつの要素を縫合する能力である。しかしこんな心配はこのオーストリア作家には無用だった。なにより訳者解説でも言及されているように、本作でいえばグルムバッハのような新教派のドイツ人の立場や境遇のことだが、つまり「決してあり得ないことではない着想」に関してペルッツは優れた手腕を発揮している。これはモンテスマ王の死因や架空の人物のキャラクタライズにもよく当てはまるし、「貢ぎ物」の章の顛末なんかまさにこれで、ひとつの歴史の「解答」として全然アリだなと思えてちょっとおかしかった。

それからやはりペルッツストーリーテリングや人物造形に強みを持っていると思う。それが他の作家と比べて上手いかどうかはわからないが、読んでいてたびたび純粋に、その強さに、思わず唸るところがある。これで人物が設定やストーリーに負けているとかキャラクターの魅力に話が追いついていないとかあればさほど没入もできなかったであろうが(特定の作品のことを言っているわけでわなぃ…)、『第三の魔弾』の場合、良くも悪くも存在感のある登場人物たちがパワーもスピードもスペクタルも備えたストーリーをこれでもかというほど存分に駆け抜ける。後半になると続きを早く知るためにページをどんどん進めたい自分と読み終わるのが惜しくて徐々に切なくなる自分とが同居し、私は不思議な興奮状態にあるまま手を動かすだけだった。

そういえば、いつだったか聞いた作家の対談で「小説というのは一種の説得作業なんです」みたいな発言があったのを覚えている(かなーりうろ覚えだけど)。ペルッツの手になる作品の魅力はおそらくそこを洗練させたところにあって、その独特の説得力が魔力的である点で彼は疑うべくもなく正統に、いっそう深く幻想文学の世界の人であろうなあと思った次第。いやこんなまわりくどい言い方をせずとも決まりきったことだろうけど…。とにかく面白い本を読めた。こんな幸せなことはない。

 

魔弾は呪いにより必中の宿命を負う。だが本当に3発だけだったのか? 本を閉じたとき不意に作者の幻影が現れて、もう1発、ズドンと、われわれの胸を撃ち抜かなかっただろうか?

 

ところで自分で書いていて思ったことだが、そして(仮にいるとして)読んでいる方もそう思われたのではないかと信じて疑わないのだが、上に書いた内容は見ようによってはなんとも身近な問題ではないか。「こうならね〜かな〜」も「決してあり得ないことではない着想」も、得てしてわれわれがいわゆる二次創作に取り組む際の始原的で根本的な欲求になるものだ。公式的に示されたものとは異なる展開、運命、世界を望んでしまう罪深くも甘美な経験をした人は多いはずである。文章であるか絵であるかの形式や媒体もその分量も問わず、われわれはそうした示されていないものを日常的に求め、創作へと向かう。まるでサッポロビールのCMのように(わからない人は「ないものは、つくるしかない」でググろう)。

このいわゆる二次創作に向き合うとき、原作と妄想の擦り合わせようとしたり、あるいはもとより捏造モノとして出発したりするにしても、どうあれ説得的なものになるよう苦心することもなかなか多いが、それを会心の出来で成しえたときの快感というのは筆舌に尽くしがたい。そういう意味でも『第三の魔弾』は、作者本人がどこまでそうした欲求を持っていたかは知らないが、われわれのお手本となる傑作として見ることもできるし、ペルッツはそうした想像力の大大大先達でもあるかもしれない。また少し異なる趣になるが映画『シャーロック・ホームズの素敵な挑戦』も同様で、その想像力の幅やら柔軟さやらに接見することで「こういうふうにしていいんだ!」という勇気(自分勝手な幻想かもしれないけれど)を与えてくれる作品が世の中には意外とたくさん存在し、ふらついているとたまに出会うことができる。

もちろんそうした名品と自分のやっている素人創作を比べようとするのは、たしかに決定的な格の違いを思えばあまりに畏れ多いことではある。けれど、よいものを創ろうという真摯な態度には時代も立場も関係なく学べるところがあるはずだ。魔弾のように必中ではないけれど、われわれにも自分の持ち弾があるのだから。