書訪迷談(11):物語は圧倒的に

 

儀式 (講談社文芸文庫)

儀式 (講談社文芸文庫)

 

 

「物語」という言葉もいろいろ定義があると思われるけれど結局よくわからないし、わからないままでもよいのではないか。私も自分の読書にそれほど明確な目的を持たせていないが「たくさんのものに触れ、ないような脳でも可能な限り多くを知り、結果的に多くを肯定できるようになれれば」くらいには漠然と思わないでもないので、やはりなにかいろいろわかっていたらもっと面白いのだろう。けれどこの出口のなさそうな難問に取りかかる余裕はない。

いやでもたしかに物語はどこにあるのかなど疑問を浮かべてみるのは楽しそうだ。たとえば人間は単に平面上を移動する図形にさえ順序立ったストーリーを見いだせるし、ただの図形であってもその種類が増えるだけで人間関係や性格の違いなど多様な意味づけできてしまうほどになるわけで、おそらく認知や直感のレベルで物語を好んでいると言える。ある対談の折に新城カズマがぽろっと「物語って認識の一形式なんじゃないか」なんてこぼした記憶があるのだけど、実際のところ研究の分野などで厳密にどう論じられているかは知らないが、私はこの人間主体の考え方はけっこう好きだ。読書中にそれを体験しているのは自分だ、みたいなことは以前の記事でも書いたかもしれない。反面、物語は本とかDVDのような媒体のなかにも「ある」気がする。いや、「いる」でしょ明らかにそこに。その気配を感じる。いったい物語とは?

……てほら、もう迷宮入り間近でしょ。いくら自分が認識の主体であるにしても対象がなければならないし、物語を発見しようとする力が意識か無意識かで働くにかかわらず、その構成要素のようなものがなければ片手落ちだ。どちらかにだけ属するとは言いがたい。そして物語はこうした関係を前提に存在していると表現することもできるかもしれないが、独立した中間的存在という感じもぜんぜんしない。関係そのものかというとそれもちょっと腑に落ちない。要するにわからん。

はい、この話やめ。前置きが重すぎる。はっきりわかる事実といえば、図形を介してであれ文字を介してであれ、われわれがたしかに物語を感じていることくらいである。楽しむのには差しあたりそれで十分ではなかろうか。

 

新年最初の(きちんとした)読書はレスリー・マーモン・シルコウ『儀式』となった。文庫収納ケースを整理中いくつか見比べていて目に入るや「そういえば持ってるのに読んでなかったな」と手にとって読みはじめた次第である。当然のこと予備知識は皆無。邦訳は本書ともうひとつあるが同じ作品らしく、しかも同じ訳者によって新しく訳しなおされたもので実は単純な文庫化ではないようだが、いずれにせよ既訳は本作のみ。そして現在はいずれも絶版。そんな事情なせいか作者の名も日本ではあまり知られておらず(日本語のWikiがない)、もれなく私もそのうちのひとりだった。

だが読み進めてみて驚いた。これはかなりすごい本だ。なぜならそこには物語があったから。さっきわからないという話をしていたくせに、これは物語だと感じるのである。こんなことがあるのだ。

この小説はまず詩文で幕を開ける。基本的な形式は散文だが、作中にたびたびインディアンの口承文芸が差し挟まれていて、ありきたりではないただならぬ雰囲気を初端からまとわせている。話の主筋をざっくり説明すると、戦争後遺症で精神を傷めたインディアンの青年が部族の儀式を通じて自分を取り戻すというものである。しかしここにさらに多くの問題が絡みつく。混血であることの宿命、伯父への憧憬、白人に対する視線……戦争、人種と差別、家族や友人や女性との関係……あまりにも切実な重荷が山積している。さらに主人公テイヨの精神状態さながらに、本作のとりわけ前半部では時も場面もたびたび移り変わることから、読者は状況が複雑かつ深刻であるのだと否が応でも把握する。私もわりと戸惑った。

たださすがというべきか、ある種の錯綜した構成を持ちながらも明快で丁寧な文体がしっかり道筋をつけて導いてくれる。そのおかげで私もなんとか迷わずに歩ききることができた。正直を申せば読むこと自体にはかなり苦労したけれど、著者がすぐれた書き手=語り手であることは微塵も疑がいえなかった。おそらく「物語り(ストーリーテリング)」に相当なこだわりや並々ならぬ愛着があるのではないかと読みながら推察していたのだが、親族からの教えに大きな影響を受けていたと訳者の解説にもあるとおり、やはり身近に物語のある環境に育っていたのだそうだ。語りというおこないが聞き手の存在を抜きにしてはできないことを身体で覚えているわけである(めえぜるさんがどうあがいても考慮できないところなので羨ましい)。それゆえ面倒事を多分に扱うにもかかわらず、ずっと寄り添われているような安心感があった。

そしてこうした下地があるおかげなのだろう。戦地で日本兵を殺さなければならなくなったり、人間関係における不和や人種的な差別に直面したり......読みながらこちらも不穏にそわそわとしてしまいそうな、ともすればイデオロギッシュな告発に堕しかねない要素に向き合いながら、切実ではあるがあくまで冷静にこの小説は書かれているように思われた。もちろんまったくないわけでもなく、特にネイティヴ・アメリカンの土地を侵して奪った白人とキリスト教に対する怒りが克明に描写される。先住民たちが辿らざるをえなかった困難の歴史に関して作者は間違いなく意識的だ。そして並々ならぬ思いがあった。だからこそこの作品が著されたのではなかろうか。新たな時代にふさわしい、新たな時代の人々に伝えるべき物語として。

作中で儀式を執りおこなう老メディシン・マンの言葉からもどことなくそんな姿勢が、決して楽観ではないが思いのほか前向きな態度が、どこか垣間見えた気がする。新しい時代、新しい世界においては新しい儀式が求められる。伝統は少しずつ新しくなる。

「儀式はこんなふうにいつも変化しておるのじゃよ」   

蛇足で妄言のようなことを垂らしてしまうと、読後感はフランツ・ファノンよりかは保苅実のときのほうに近かったな、なんてふと思った。白人へのコンプレックスのくだりなどはたしかに『黒い皮膚・白い仮面』がうっすらちらつかないでもないが、それにもまして、歴史と深く結びついた部族の物語を肯定するという点から見れば『ラディカル・オーラル・ヒストリー』を思い出さずにはいられない。いずれの本にしても私はよい読者でもなかったし印象論で単純比較をすべきではないのは承知だが、私としては保苅やシルコウを読むほうが性に合う感がある(ファノンの立場を悪く言うつもりは毛頭ない)。

というか話が逸れそうだが、あまり前のめりに構えなくても『儀式』は無理なく読める傑作だ。人間も動物も植物も、そして人間の作ったものも、ありのままに描写してゆく筆の力がある。この作品は、独りよがりな人間中心主義を脱しながらも人間存在に愛着を向けるヒューマニズムのにおいがする。私のような正義や道徳の問題を恐れる(そこから完全に無関係でいられることなどできないというのに!)弱い人間でさえも、目を背けずに踏破できる。それはやはり、聞き手たる他者の存在があることを前提として作者により追求(究)され紡ぎあげられた物語それ自体がきわめて圧倒的な存在だったからであろう。大小様々な問題を矮小化することなく、しかしそれらを超えて、覆いこんでいるのである。

それゆえの批判もありうるし、もちろんもっと当事者となる人たちが読めば異なる反応を示すかもしれないし、そもそも私が愚かしくも大いに誤読をしていることこそ請け合いなのだが、こうして文学作品に気圧される体験というのはなかなかないため貴重だった。多くの作品を読み慣れている方々からすればそうはならないのかもしれないが、少なくとも普段と雰囲気の違った読書ができるのではないかと思う。誰がここを覗くのか、それに誰がここにきて本を読みたくなるのか不明(ある意味では自明?)だが自信をもってオススメしたい。惜しいのは前述のとおり絶版で特に文庫版の中古価格が若干高騰していることである。図書館などで求められたし。

 

それと、この作品自体が見事な物語なのでその話をしてきたけれど、作中でも部族の物語が青年を心を救済しているのは非常に興味深かった。物語の秘める力、そしてそれゆえの危険性を感じずにはいられない。明確に覚えてないからいまやなんとでも言えてしまうけれど自分が小説を書こうとした動機も、逸見エリカの魂は救済されないといけないから物語が創られなければならないとか、実はそんなだったのではなかろか。いや知らんけど。

あと本当にもうひとつ思ったのは、書こう書こうと思って必死になってやっとこ落としこんだ自分の文章ほど(少なくとも書いてからしばらくは)ブサイクに感じられるものはないということだ。西脇順三郎は「詩を詩として書こうとすると詩から離れる」と、あとダリだったか誰だったかが「パンをパンとして描こうとすると煉瓦になる」と言っていた気がするのだが、要するにそれである。今回の記事は読んだ本のことを久しぶりに書こうとして、いまこの文章を書いているあいだにも気合の空回りでどんどん膨れあがっている。集中しようとすると逆に視野が狭まり、結果として浮いた文ができあがる恐怖も拭いきれない。それに相変わらず「語るほど失われるものがある」という気がするし……自分の怠慢で間が空いてしまったことを言い訳にしたくはないが、継続による地道な鍛錬と模索ほど信頼に足るものはないと再確認した。特に私のような凡人にとってそれが唯一の道なので、今年もちょっとずつ進んでゆきたい。頑張るぞ。